普遍性? と哲学者は問い返す

「普遍性」という言葉は、どうやら、そうそう気楽に使っちゃいけない言葉のようで、哲学論争のタネになったりします。ただ、異文化コミュニケーションに必要な条件として、これほど適切な言葉もないため、ここでは、誤解覚悟で使うことにします。厳密な議論をしたい方は、こういうページなどを参照してください。ちょっと違う趣旨の記述も多いですけど、それはそれで、面白い。

さて、前回、『「普遍的」というのは、「特定の文化・常識を前提としない、人類だれでもが共有する価値観・知識に立脚した」といった意味です。』なんて簡単に書いてしまったけど、「人類だれでも」は、理想に過ぎると言われるかもしれません。

現在の世界では、「普遍性」は国家レベルで打ち止めと考えられているフシがあります。

法律は、さしあたり正義ということになるんだけど、法律は国家単位で制定されています。己の利益の為に人を殺すのは、明らかに悪いことであるにもかかわらず、国家の利益の為に戦争をすることは、悪とはされていません。勿論、戦争は悪いことであると主張する人は大勢いるのですが、国家レベルの合意である法には反映されていません。(日本国憲法にはそれらしいことが書いてあるのだが ...)だから、ヒットラーはナチスドイツにおいては正義の人であったし、金正日も北朝鮮においては偉大な将軍様であるわけです。

しかし、普遍性の範囲を国家で打ち止めにしようという考え方は、ゆらいできています。

現在、ほとんどの国で、国境を超えた経済活動が行なわれています。ってーか、それなしじゃ、経済は成り立たない。地球環境問題など、一国内の議論ではどうしようもない問題も山積みしています。そういえば、インターネットなどというものも、国境を超えて広がっています。NATO軍によるユーゴの空爆は、国家を正義の礎とするという考え方を完全に否定しています。

米国は、まだ、国家(USAしか眼中にないけど)を正義の源泉と考えているフシがありますけど、ヨーロッパ諸国は、とうに、国家を昔の一地方のように考え始めたようにみえます。

普遍性を追求する西欧の文化は、かつては、西欧内部での普遍性しか考えていませんでした。(コロンブスが『発見』したアメリカ大陸にインディアンが住んでいたなんて、珍妙な話ですよねえ)しかし、かつて『野蛮』とされ人間扱いされていなかった人々も、異なる文化を持つ人々と考えてもらえるようになっています。(文化相対主義、だったかな?)

ひょっとして、米国やオーストラリアが、実は『野蛮』な国家なんじゃないか、などと、私はついつい考えてしまう。(勿論、北朝鮮やナチスドイツは論外ですよ)

トリトメのない話になってしまったけど、普遍性に関しては、また、改めて議論することに致しましょう。