意識を持つ社会、再考

昨日紹介した西研氏の本、最終的に目指しているのは、フッサールの現象学を社会に応用する、ってことです。だけど、肝心のその部分が、"To be continued" になっちゃっているんですねえ。

現象学的社会学ってのは、前に紹介したシュッツらも提唱しています。

社会学、つまり社会を研究する場合、社会を電気回路かなんかみたいに考え、入出力を持つブラックボックスとしての社会、の応答を研究しようという、システム論的アプローチというのが一般的に取られます。これ、実用的なアプローチなんですね。社会を動かしたい時、どこをどういじれば良いかを教えてくれるわけですから。

これに対して、現象学的アプローチは、自らを取り巻く社会において、自らがどう感じるか、ってところから研究をスタートします。システム論が、社会を離れたところから観察するのに対し、現象学的アプローチは、社会の中に身をおいて、観察するんですね。

私も現象学的アプローチを考えているんですけど、これ、現象学の土台が違います。普通、現象学といえば、「私の意識」に基礎を置くんですけど、私の現象学は、「社会の意識」に基礎を置こうというわけです。

その根拠は、「私の意識」は、私の脳のニューロンにおける情報処理の結果としてできているのに対し、社会にも、人間間のコミュニケーションを媒介として同様な情報処理が行なわれており、そこに、意識に相当するものが認められるという点にあります。

だいたい、「私が」といったところで、それを本に書いたりしている以上、個人的世界の話じゃないですよね。最初から、学問なんてものは、社会の意識の話なんですね。このあたりをきちんと論証して、理論大系にまで仕上げられればすばらしいと考えているんですが、、、