文化と常識の微妙な違い

文化は常識のことである、って定義を何度も何度もこの日記には書きましたけど、文化と常識って、微妙な点で違いもあるんですね。

一つの違いは、以前書いたように、あまり小人数の集団の常識は、ちょっと、文化とは呼びにくいということがあります。実は、もう一つ、違いがあります。今日は、それについて書いてみましょう。

縄文文化といえば、縄文式の土器が代表的だと思います。縄文文化には土器の文様だけ出なく、縄文式土器を作る技術も、当然含まれているのですが、縄文時代人が誰でも土器を焼く技術を身につけていたとは、とても思えません。

現代の文化に至っては、更に決定的で、我々は様々な科学技術の恩恵に浴しており、それらを作る技術や知識も現代の文化の一部であるのですが、誰もがそれを知っているわけではありません。実のところ、技術の真髄は、誰でもどころか、ホンの一部の人しか知らないはずです。

しかし、発電の方法を知らなくても、電気を使うことができますし、プラスチックについて何一つ知識がない人でも、ポリ袋を使いこなすことができます。知識を共有するということは、全ての知識を全ての人が、自ら持つという意味ではなく、その知識の結果にアクセスできる、その知識の恩恵に浴することができるということと解釈すべきでしょう。そういうものがある、手に入れられる、使える、そうした知識が共有された知識であり、常識であるわけで、文化はその背景(便利な生活を支える裏方さん)も含んでいる、ってわけです。