新しいコミュニティ

コミュニティの話を続けます。

マフェゾリというフランスの学者は、現代社会に部族的小集団が増えてきたと、その著「小集団の時代――大衆社会における個人主義の衰退」に次のように書きました。

更にその上,小集団[部族]への帰属感情がテクノロジーの発達によって強化されるようなこともある.

事実,《ケーブル[電信,電話など]》,さまざまな情報伝達(遊戯的,性的,機能的などの)は,さまざまな形状とさまざまな目標を持った多くのグループがそこで出現し,強固なものとなり,やがて死ぬコミュニケーション的母型を,潜在的に作り出している.このようなグループは,かっての部族,あるいは村を形成した氏族の古代的構造を想起させずにはおかない.

統計学的調査からも分かるように,次第次第に多くの人が《独身者》として生きるようになっているが,孤独である solitaire ということは,孤立してisole [他から切り離されて]生きることを意味しない.やってくる時と場合に応じて──とりわけ,ミニテルが差し出す情報のアナウンスのおかげで──《独身者》は,何らかのグループ,何らかの活動に統合される.このように多くの抜け道によって(ミニテルはその中の一つである),スポーツ,友好関係,性,宗教,その他の《小集団[部族]》が形成されるのである.それらのそれぞれが,その中心人物たちの打ち込み方[備給]の程度に応じて多様な,持続時間を持つのである.

マフェゾリは、現代社会に増加する「部族的小集団」の例として、ネットのボードの他にも、宗教団体や犯罪組織から、日本企業の中で行われている小集団活動までをあげています。そして、人々が「部族的小集団」の活動にのみ込まれる結果、国家意識は薄れ、個人主義が衰退する(小集団に個人が埋没する)と説きます。

しかしですよ、まあ、小集団活動が盛んになれば、人々の関心が大きな世界に向かわない、投票率が低下する、くらいの問題は起こるでしょうけど、法秩序が失われて部族抗争がそこらじゅうで起こる、なんて事態は考えられないでしょう。つまり、社会の大きな部分では、抽象的な社会組織が支配し続けることには変わりないのですね。

マフェゾリは、ポストモダンの思想家らしく、この傾向を嘆いて筆をおいているんですが、これ、コミュニティがしっかり再生している、ってこと、だと私は読みました。良いことじゃないか、とね。もちろん、変な宗教団体や犯罪組織が蔓延するのは困りますけど、それぞれに仲間と楽しめる場所を見つけ、企業組織の中でも個性が発揮できるのはすばらしい話、決して嘆くような話ではありません。

もちろん、マフェゾリが嘆いているのは、別の所にありまして、人々の関心が大きな世界から離れてしまった、という点にあります。でも、狂信的国家思想はむしろ有害、大きな社会の仕事は、物語を提示することではなく、社会の秩序を護り、人々の生活に安定と平和をもたらすこと、個人に、広く、平等に機会を提供すること、つまり、抽象社会で良いのですね。逆に、大きな社会は、そうじゃなければ保たれない。大きな物語、どうしても護ろうと思うと、無理が生じるのです。その行き着くところは、政治犯収容所、秘密警察、密告などが横行する社会です。

古きよき時代の村落的社会関係で、地球上を覆い尽くそうなんて、土台無理な話です。さまざまな文化が並存する以上、大きな社会が抽象社会になるのはやむをえないこと。その冷たい社会関係の中に、無数にできた小集団、これが人々のアイデンティティ獲得のための、コミュニティの役割を果たす、これが現在最も実現性の高い、平和で、自然な社会関係であると私は思うのですね。

もちろん、小集団に属していても、その外部を取り巻く抽象社会と良い関係を保てることは必須の条件。外の世界が見えないようだと、その人にとっても不幸なことになりかねない。オウムの信者なんて、その好例ですよ。そんな不幸を未然に防ぐには、教育で頑張るしかありません。それには、学校にコミュニティを作り出すこと、これが必須の条件だと思うのですね。