なぜヒトを殺してはいけないか。小学生殺人の考察、その3

この題で昔の日記に書いたことがありますけど、小学生殺人事件で、また、議論を呼びそうです。で、先手を打って、この日記でも議論しておこうと思います。

その理由、昔の日記では、「みんながいけないと思っているから」なんて書きました。この記述、迫力のない主張ですねえ。自分で書いていながら、そう思う。でも、これ、基本的に間違ってはいないと、今でも考えているのですね。

「……してはいけない」とか、「……は許されている」といった、倫理、道徳と呼ばれる規範、結局の所、個々人と、己の属す社会とが共有する認識。社会というのは個々人の集まりで、つまるところ、こういった規範は、その社会の大多数の人が同じように考えるから規範でありえるのですね。

もちろん、社会に属する多くのヒトがそのように考えるのは、多分理由があるのでしょう。宗教的な理由とか、生理的な嫌悪感とか(私なんか、鶏を絞めろといわれても逃げ出します)、自分が殺されると困るからとか、殺されるヒトがかわいそうとか、、、ま、いろいろな理由が存在しえるのだけど、その理由、異なっていても構わない。

みんなの考える結果が同じ「ヒトを殺してはいけない」ならば、理由の違いを議論する必要なんか、ないんですね。結論は既に出ているんですから。というわけで、なぜヒトを殺してはいけないのか、という問いかけに、先の答えが来るわけです。

ま、教育の場にある方がコレを読まれているのでしたら、上のような、様々な理由ヒトを殺してはいけないと考えるヒトが多いこと、理由はともかく、現在の社会では大多数のヒトがそう考えていて、それが倫理・道徳の一部であり、法も作られていることをきちんと教えて欲しいですね。

しかし、道徳教育、「愛国心」を無理に教えようとして土台が揺らいでいるかも。そんなことで道徳教育がおろそかになっているとしたら、コレは大問題ですね。

もちろん、社会には多種多様なヒトがいるわけで、中には、人殺し、別に良いじゃんなんて考えるヒトがいても不思議はないわけです。で、そういう主張がなされると、反対する主張もなされる。さまざまな理由が述べられます。で、みんなが納得すれば、倫理・道徳だって変わりえるのですね。

同性の結婚なんて、少し前なら、とんでもない話。でも今は、それを認める社会もある。まあ、人殺しを社会が認めるなんて想像し難いけど、ありえない、とは断言できません。

さて、みんながそう思う、なんて、頼りのない、あやふやなものに思えるかもしれないけど、倫理・道徳に限らず、真実も、価値感も、大抵はこの基準に従って定まっているのですね。

こういった、ある種の抽象概念、実体が自然界に存在するわけではなく、ヒトが自分の頭で考えることによって、主観世界の中に作り出されるものなんですね。でもこの主観、一人のヒトの主観に閉じたものではなく、ヒトとヒトとのコミュニケーションを通じて、他のヒトとつながっている。

つまり、主観のある部分は他のヒトと共有されるのですけど、それ以前に、主観のかなりの部分は、他の人たちとのふれあいを通して形成されるのですね。コレ、「間主観性」なんて難しい言葉で呼ばれるのですが、「常識」と呼んだ方が判りやすい。あ、だから、ヒトを殺しちゃいけない理由、「だってそんなの、常識ジャン」も正解ですね。

問題はこの「常識」という奴、昔は一つだったんだけど、最近は揺らぎがあるのですね。ポストモダンの思想家が言う「大きな物語の喪失」なんですね。でも、「そして世界は退廃する」という結論じゃ、問題解決にはなりません。新しい物語、より大きな物語を生み出す、これ、コミュニケーションの力です。

最近問題視されることの多いネットの力、確かに、古い物語を壊す作用もあったけど、より大きな物語を作り出す、力の一つにもなり得るはず。これがどうすれば出来るのか、それが私の最大の関心事だし、この日記、プログ、ホームページの目指す所でもあるのです。