弱いものいじめの連鎖。悲惨な事件ですね。

少女による少年突き落とし事件、次第に伝えられ始めた背景、読めば悲惨な話であります。

上にリンクした記事を読むと、この少女に殴る蹴るの乱暴を働いた教師、これがまず、異常です。でも、おそらくその教師の心の内、日本人に痛めつけられた過去は、あったのでしょう。で、いじめられた少女、日本に帰ってきて、小動物や少年をいじめる。突き落とされた中国人の少年、突き落とした少女より弱いわけですからね。

コレは、おそらく心の病、なんでしょうね。でも、正常と異常の境、実の所、それほど明確に線を引くことが出来ない。イラクの人質や拉致被害者家族に対する嫌がらせ、これも弱いものいじめ。これ、心の病、なんて簡単には決め付けられませんよね。おそらく、こういうことをやっている大抵のヒトは、至極普通の人たち、でも、心の奥に、何らかの痛めつけられた思いがあるのでしょう。

しかし、こんなことをやっていては、弱者が弱者をいじめる悲劇の構図、どこまで行っても終わらないのですね。下手すりゃ、増殖してしまう。

さて、こんな悲劇、どうすれば防ぐことが出来るのでしょう。

まずは、システムの問題、学校で見つけ出して手を打つ、というのが一つでしょう。最近多い心の病、教師には対処が難しいかもしれませんから、専門家がガイドをする、問題が発見されたら対処する、助言する、そんな組織を政府が用意して、広報する必要があるのでしょうね。

でもそんな、お上に頼らない当事者の対処、コレもやっぱり必要でしょう。弱者をいじめない、いじめの仲間に加わらない、ま、そんなことも大事なのでしょうが、それよりも、個人が強くなること、自律すること、それが本質的問題なんですね。

いじめの問題、個人個人が自分で考えて、自分で行動するようになれば相当に減るはず、現在の子供たち、大人たちもそうなんですけど、自分の行動を自分で判断できない、周りの動きに合わせて行動してしまう、そんなパターンが多すぎるのですね。

これ、内部ではいろいろな悲劇を引き起こすのですね。端的には、異質なメンバーの排除、おかしなことが行われても、周りがそうしていれば、同調してしまう。

でも、そんな集団の被害者以上に、集団の全てのメンバーを、悲惨な結末が待ち構えていることも、ママ、あるのですね。

リースマンの「孤独な群集」は、適応型の人間が多い社会に危機感を抱き、自分で考え、自分で行動する、自律型の人間の重要性を訴えています。このようなヒトは、ときに社会からみると、逸脱者、なんて見方もされるのですね。面白そうな所を以下に引用しておきましょう。なおい言葉は、ほとんど同じ意味です。

たとえば、アロア族について行われたロールシャハテストによれば、この未開部族の間では性格学的な共通性がきわめて高く、カーディナーの名づける基本的パーソナリティ型、ないし文化的規範を逸脱したような人間はきわめて少なかったのであった。このような社会はことによると、その無関心と貧困の故に滅亡してしまうかもしれない。とりわけ、白人との接触によってこのような社会はその崩壊の速度を早めるであろう。しかし、この部族の中に、自律的な人間がいて、それによって内部的にその社会がうまれ変わってゆかないとは誰も断言できないのである。社会的性格と厳密な社会制度の板ばさみになって、個人とその潜在的可能性は開花する機会をほとんど持たないのだ。しかしながら、そのような社会においてさえも逸脱者というのは存在しているものなのである。ルースベネディクトが指摘したように逸脱者のいない文化はどこにも存在していない のである。

バブルの時代も、付和雷同組が大勢、痛手を被りました。ちょっと考えると、危ない、なんてことに気付きそうなものだったのですね。まあ、個人レベルで馬鹿なことをするのは、致し方ない、と言えるかもしれない。でも、プロである銀行が、そろってこんなことをしてしまっては、言い訳が出来ないのですね。逸脱者の不在、文化の不在、これが大きな問題だったのかもしれない。

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