宗教の問題、コレは難しいですね

まず、物理学の対象となるような神は、これまでの所、見出されていません。つまり、物体に神秘的な力が働いて、物理学の法則に反した動きをする、なんて現象は、これまでの所、観測されていないわけですね。

生命の重さ、なんてモノを測ろうとしたことはあるのですが、生命にも、神秘的なものは何もなさそうであるというのが、コレまでの自然科学の教えるところ。精神も同じでして、ニューラルネットのインパルスで説明できそうなのですね。

そうなると、神が存在するかしないか、などと議論する前に、命もなければ心もない、そんな話にいってしまいそう。でも、「漫画はインクのしみである理論」によれば、そんなことだと、漫画のストーリーも存在しない、ということになってしまう。

ヒトが価値を認める存在、これは物理学の対象となるモノだけじゃない。漫画の本には、形ある本、綴じられた紙とインクで構成される物体、と、同時に、漫画のストーリー、せりふ、絵など、作者の表現があるのですね。知的財産権の世界では、前者を「有体物」、後者を「無体物」と呼んで区別しています。

で、本の価値、有体物の部分より、無体物の部分が高く評価されてます。だから、イノチやココロが、物理的に実体がないからといって、価値が一段と低いわけではない。宗教についても同じことが言えるわけです。

イノチやココロ、誰でも同じように価値を認めるのですね。神も、その基本的な部分では、どんな宗教でも大きな違いありません。ところが、宗教をめぐっては対立が尽きない。イノチやココロと神、この間の違いはなんなのでしょうか。

一つには、宗教は、習慣と結びついている。ある種の血族的共同体に属している。そして第二に、職業的宗教人といったヒト達がいて、組織を作っているのですね。

最初の点は、宗教を通した人々の結びつき、村落的共同体に属しまして、ある種の排他性を持ってしまうのですね。だから、よそ者には冷たい。このような世界は、論理性や合理性には距離を置き、普遍性に欠けます。西欧のキリスト教文明、普遍性を標榜しましたけど、未開のヒトを差別する、その社会の内部にあっても、異端者には厳しい態度で臨みました。

今のバチカン、このような過去を反省している様子がうかがえます。そして、真の普遍性を追求しようという意欲も持っているようです。これは、非常に良い兆候かも知れなのですね。

第二の点は、組織の問題。教会のさまざまな儀式、教会が決めたもの、仮に教祖が決めたものだとしても、それが宗教の本質かどうかは疑わしい、しかし、教祖の言葉があれば、そのコトバに縛られる、後の世のヒト達、本質を追及するよりも、形を追求してしまうのですね。

このような生き方、宗教人として安易な生き方なんですね。でも、そんな形で突き進んでは、世界のあちこちに不幸をばら撒くだけ。もうそろそろ、全ての宗教人は、宗教の本質を考えるべき、そんな時期に来ているのではないか、と思うのですね。

で、多分出てくる結論は、ココで私がまさに述べんとする、その内容ではないかと、、、