哲学、社会の事柄は、、、

この件に関して、このあたりで基本的なところをまとめておきましょう。

まず第一に、デカルトの「我思う、故に我あり」なんですけど、絶対的に正しいと思われるこのコトバ、「思う」という行為が、個人的な行為ではなく、社会的な行為であるとすると、単純ではなくなる。

ヒトは、唯一人で思考能力を身に付けたわけではないのですね。考える上で必要な概念は他者から受け継いだものだし、考える道具でもある言葉は、そもそも、他者の存在が前提、そして、考える過程でも、他者とのコミュニケーションがあるだろうし、考えた結果は、本に書いて、他人に伝えようとする。

ヒトがモノゴトを考えるということは、確かに個人的行為であるかもしれないけど、哲学的思索のような行為は社会的行為である、これは認めざるをえない。で、同様に、自然科学の教えることも、認めよう、そうすれば、なぜ、考えるという行為が社会的行為になりうるのかがわかってくる。

ヒトの思考、その人の頭にあるニューラルネットの働きなんだけど、社会もコミュニケーションする個人のネットワークで、脳と同様の働きをする。つまり、社会が考える、って訳ですね。

さて、考える社会、その社会にもイロイロありまして、小は友人の集まりから大は人類全体まで、そのそれぞれの社会が、それぞれの深さで考える、で、社会の認識が常識だとか、文化だとか呼ばれる奴なんですね。

で、それぞれの社会が違うことを考えている。でも、そのいずれが正しいか、なんてことは、決めがたいケースが多い。なぜならば、有限のニューロンで考えている以上、絶対的に正しい、なんてことは、言えるわけがない。

というわけで、互いに関連する部分は、合意の取れる範囲で定め、それ以外の部分では、個々の社会の自立性に任す、という道が、多分、ベスト。

文化を異にする社会間で合意を探るために必要なのは、抽象的コミュニケーションとか、普遍的コミュニケーションと呼ばれる奴、これ、特定の文化を前提としないメッセージを送りあうものでして、ある意味、アタリマエといえるのですね。

今の社会の大きな問題は、この、普遍的コミュニケーションが欠けていること、企業にしろ、役所にしろ、プロ野球機構にしろ、政府にしろ、小さなムラ社会の論理で大きな世界を動かそうとしている。コレでは、ムラの外にもいる利害関係者の理解を得ること、ドダイ無理、はたから見ていれば、これらのムラ組織の暴走、信じがたい、呆れてモノが言えない、めちゃくちゃな行為に見えるのですね。

そこで目指すは、抽象的コミュニケーションの普及。そのために、ナニが障害になるのか、どうすれば良いのか、まあ、そんなことをあちらの日記では、チコチコと書いている、って訳です。

ご意見、ございましたら、どちらの日記にでも、書き込んでください。