都市化した世界を生きるための「美学」

都市化の流れは止まるところを知らず、日本中、似たような光景になってしまいました。地方に住んでいても、マクドに行きたい人がいる。需要があれば商機がある。どんな田舎にも、マクドナルドにセブンイレブン、その他の全国チェーンが展開する。テレビをつければ、どんな田舎でも似たような番組が流れているのですが、まあ、そのくだらなさを脇に置いて語るなら、これは悪い話ではありません。

社会が大きくなると、かつてのムラ社会に存在した、温かみのある人間関係が失われ、人は、契約関係によって、部分的に社会と関わる。つまり、その人の人格を離れた、レジ係なり駅員なりとして、人の一部の機能のみで社会と関わり、生活を営みます。

でも人は本来、全人格的な他者との関わりを求める存在であって、こんな不自然な関係、無理があるのですね。そのため、都市化の流れは、人々に虚しさを覚えさせ、自らを見失う。この結果、精神的不安定や、自殺、犯罪、薬物依存などが増加するともいわれています。

これを嘆く、都市化の流れに抵抗する、まあ、感情的に分からないでもありません。でもこの流れ、社会が大きくなってしまった以上、やむをえない現象でもあるのですね。

そうなりますと、抽象化し無機的になってしまった社会の中で、いかに自らを失わず、精神の安定を保つか、が大きな課題となるはずでして、その鍵となるのが「美学」です。

この美学、どんなものかといいますと、映画などに出てくる「オトコの美学」が一つの典型でして、それを守るためには、あえて自分に損なことも厭わない。

まあ、こればかりでは困ってしまうのですが、この美学、あらゆる世界にありまして、トム・クランシーの小説では、医師や警察官が、己の職務に誇りを持って事態に立ち向かう、これも美学でして、同じようなパターンは、世の中至る所に存在するのですね。

旋盤工の美学、溶接工の美学、なんてのもありまして、難しい工作を完璧にこなす。周りの人も頼りにする。本人も自らを誇り、そうであるよう日夜研鑽に努めるわけです。タクシードライバーの美学、料理人の美学、なんてのも当然あるわけでして、ひとたび評価が確立すると、この仕事は××さんに頼まなくちゃ、なんて話になりまして、無機化してしまった都市的人間関係の中でも、全人格的な係わり合いが出来上がります。

これらの美学、本人が考えること、自ら研鑽することが重要でして、出来合いのマニュアル頼りでは美学は生まれない。でも、マニュアル重視のチェーン店でも、創意工夫を重視する傾向がありまして、実はマニュアルの権化のような、あのマクドナルドでさえ、個人の考える力を重視しているとのことなのですね。

美学、今の日本のあちこちで使えそうでして、これを読まれている方も、一丁、挑戦されたら如何でしょうか。あ、相場師の美学ね。これは、当ててナンボ、ですね。

さて、美学を押さえつけるもの、それは、考える力を抑制する組織風土でして、問題のJR西日本、この傾向が顕著。ここを改めないと、事態は改善致しません。

事故後に明るみに出たさまざまな不祥事、これはこれで問題なのですが、更に問題なのがこれに対する対応。「懲罰を検討する」こればっかりなんですね。でもそもそものスピードの出し過ぎ、これも、遅れに対する懲罰が怖かったから。

事故後の不祥事の問題の根底にあるのは、関係者のそれぞれが、考えることをしない。自分の乗った電車が脱線したら、「どうしましょう」じゃないでしょう。自分で考え、その結果を報告する。ボーリング大会にしたところで、決まったことをやっただけ。

でも、当事者を責めにくいのは、規則でがんじがらめにされ、外すと懲罰、という風土、こんなところでは、懲罰逃れに汲々として、考える力は身に付かない。その結果の不祥事、それをまた懲罰とは、なんとも不条理な話があったものですね。

似たような問題は、卒業式での国旗と国歌。これも強制と懲罰の世界なんですね。もちろん、卒業式に国旗を掲げ、国歌を歌うのはなんら問題ない。でも、強制は駄目です。懲罰をちらつかせての強制、そんなやり方をみていたら、考えようなんて気はなくなる。

これ、JR西日本よりも問題の根が深いのは、それが教育の場で行われていること。教育の場で、考える力を殺いでしまうこと、これは大きな問題、というより自己否定ですよ。最近の子供達、考える力が落ちている、なんて問題にしてますけど、学校がそうしている。子供達、素直なものなんですね。某教育委員会の馬鹿共を何とかしなくちゃいけません。

「強制は如何なものか」天皇陛下のお言葉、もう少し、重く受け止めてもらいたいものです。