ネギま!の哲学、その4。ローカル? それともグローバル?

ネギまの哲学、続けます。

この漫画で、一つ面白いシチュエーションが、ちうこと長谷川千雨と、その他の人たちとの認識の違い、です。ねぎ先生他の主役級の登場人物が生きる世界は、魔法使いの世界、まほら学園のローカルな世界であるのに対し、ちうの世界はテレビ的現実世界、なのですね。だから、ちう、世界樹の存在に、なぜレポータが押し寄せない、と不思議に感じているわけです。

そういえば、このお話、マスコミの世界とは隔絶された世界、ですね。一応、新聞、というものは存在するのですが、それは、新聞配達という、バイトの対象としての存在であって、新聞の本来の役割、ニュースを伝える、という点はこの物語の中でほとんど話題になりません。この人たち、テレビを見ているのかも怪しいですね。そういえばテレビ、この物語に登場したこともあるのですが、生徒たちが見ていたのは、朝倉の製作した番組、唇争奪戦!

マスコミ、公正中立な報道、という建前を掲げていますけど、マスコミに関わる企業も、現実社会の経済的政治的関係の中に存在するもので、テレビ的現実がどの程度現実に近いのか、あまり自信が持てないのですね。やらせ、なんてことも日常的に行われているようですし。ま、問題視されるのは良いけど、始終問題になるのは問題です。

ま、この問題は深く追求しないことにして、ローカルとグローバル、という括りで話を進めましょう。

ローカルとグローバルという問題、最近いろいろと世間を賑わしている問題の核でして、企業内部の常識と世間一般の常識の乖離が問題視されたり、経済ルールのグローバルスタンダード、なんてのが問題になったりします。でも、ここでいうグローバル、というのは、西欧世界ローカルをグローバルと呼ぶ、なんて傾向もあるのですね。ところが西欧の常識=客観的な真実、なんて素朴な思想は、内部からも、外部からも崩壊してしまいました。

一つには、哲学的な考察の果てに、客観的真実なんてありえない、全ては主観の中に構築されるべきとの考えが支配的になりました。客観的真実といえど、人が主観の中でそう考えている、というわけですね。

もう一つは、西欧以外の社会の存在を無視できなくなりました。イスラム社会あり、日本や中国といった東洋の社会もあり、南米、アフリカの人たちの存在も無視できません。人の流動は世界的規模で起こり、資源、地球環境といった全地球的な問題に関心が集まってきたのですね。

こういった問題の上にポストモダン思想が流行ったのですが、その結論は、ローカルの世界で生きる、ということ。まあ、まほら学園都市は、この考えに基づいて運営されているようです。結界を張ってテロ(?)を防ぐ、なんてね。でも現実の世界は、これじゃあなにも解決できません。すでに社会は全地球規模に拡大したわけですから。まほら学園にしたところで、京都に行く、なんて話になれば、新幹線は動いているのか、京都の天気はどうか、なんてことを一応は押さえておかなくちゃいけないのですね。教育内容など、他にも多数の懸案があるはずですね。

現実世界でグローバルな問題はいかにすれば解決できるのか、という問題は投げちゃいけない問題。ローカル世界に閉じこもることは、ひきこもり、と同じで、何の解決にもならないのですね。

で、この問題の根源が何かというと、世界は恐ろしく複雑になってしまった、ということ。人の頭脳では扱えないくらい世界は複雑になってしまった、というのが問題解決を難しくしています。というか、これでは解決不能です。このまま、では、、、

でも、複雑な問題を単純にする方法がありまして、それがモジュール化、階層化、という手法です。

これはソフトウエアの世界では普通に行われていることで、個々の構成要素を纏めてモジュールという単位にします。モジュール内部は、いってみればローカルな世界で、その中でのみ有効な名前を使って、外部とは独立に処理を進めるわけです。で、モジュールの中にも別のモジュールがあり、さらにローカルな世界がそこにある。

世界もそうすれば話が簡単になるのですけどね。国家というモジュール、その中に地方行政のサブモジュールがある、というわけです。それぞれのモジュールはローカルなルールで処理を進め、インターフェース部分だけはきちんと定義しておく、というわけですね。下位モジュールには、環境変数、なんてモノも引き継がれ、その中で、下位モジュールの守るべき条件(法律やその他のルールなど)を定義しておくことも大事です。

この難しい世界、問題を解く手法はいくらでもありそうなのですが、問題は、政治の世界、指導者たちの無教養。まあ、今の政治社会を見ていると、教養のある人が背を向けてしまうのも無理はないのですが、、、