デカルトのコギト

最近、出張が多く、生活時間が不規則になってしまいました。で、このブログもお休みが多かったのですが、電車に乗っている間は閑、というわけで、いろいろと本を読んでいます。で、最近読み始めたデリダの「エクリチュールと差異」少々面白いので、一部御紹介します。

先日のブログにも書きましたけど、デカルトのコギト、哲学の世界では重要な概念です。

デカルトは感覚が当てにならない例として夢をあげているのですが、デリダの師匠、フーコーは、お得意の狂気とコギトの関係について議論している。つまり、デカルトは夢の存在をもって感覚の不確かさを指摘しているのだけど、狂気の可能性についてはさほど考えていないようだ、と指摘したわけですね。で、デリダの狂気論が展開されるのですが、つまるところは、デカルトが狂っていようがいまいが、エゴ・コギト・エルゴ・スムという言葉の持つ正当性は疑い得ないわけで、それを前にすればデカルトが正気か否かは関係ない、というわけなのですね。

あ、エゴ・コギト・エルゴ・スム、ラテン語でして、日本語に訳すと我思うゆえに我あり、です。まあ、ネギま!フリークの方々には、ラテン語の方が親しみ易い、かも知れませんが、、、そうそう、ゆえっち、のラテン語名は、Ergo(エルゴ)ということに。ゴルゴ13みたいですね。

実際問題として、何が正気で何が狂気かは、判然としない部分があります。もちろん、論理性を欠いたり、互いの世界観が異様に異なり、コミュニケーションができなくなったりしたら、何かおかしいと気づくでしょう。でも、皆が皆、同じように狂っていたら、おかしいことに気づきにくい。この場合、狂っているのが正気、ということになってしまうのでしょう。

精神異常の世界とは多少異なるのですが、私がいつも不思議に思うことがネクタイの存在で、遠い未来、ネクタイを締める、なんて風俗が失われてから長い長い時間が経過した時代の人が現代の風俗を研究したりすると、この、ネクタイを締める、という風習は注目を集めるでしょう。

まず、ネクタイを締めるのは、男性が殆どで、その形状は男性固有の生殖器官に類似している。同時代の他の民族の風習にも類似例(股に角のような装飾をつける)があることから、この風習は、男性の性的シンボルを誇示するものである、とする説が有力となるものと思われます。

で、そうした風習が、当時の先進国とされた地域に広まっており、しかも社会の指導的立場の人たちの大部分がそうしてる。で、ネクタイを締めない人物が出てくると、反感を買う。そんな21世紀の人類は相当に未開であった、という見方が、遠い未来では常識となりそうですね。

以上は、未来の予測としては、多分正しい、と思うのですが、その未来人の主張を今の時代に行うと、おそらく、こいつアタマおかしいんじゃないか、と思われるのが関の山でしょう。

さあ、狂っているのは、どっち? これが本日の問題です。


2016.6.24追記:この問題に関しては、後のブログで解を与えております。今日の論理学の知見に従えば、このあたりが妥当でしょう。


こちらにまとめを掲載しました。