デカルトと魔術の書

前回に引き続き、白水社イデー選書版のデカルト「方法叙説/省察」のご紹介を続けます。

まず、一つだけ訂正。この本、訳がこなれている、と申しましたのは、前半の「方法叙説」の方だけでして、後半の「省察」の訳は、お世辞にも良いとは言えません。特に[ども]、これなんでしょうか。まあ、複数形をきちんと翻訳しようとすれば必要なのかもしれませんけど、とてもこなれている訳じゃないですね。

そのほかにもこの鈎括弧、そこら中に出てきまして目障りです。まあ、鈎括弧を無視して読めばよいのですがね。ブログなら灰色にしとけばよいところですが、、、

さて、この本、1週間かけて、やっと最後まで読み通しました。で、解説の部分に感動、です。

解説は3本ありまして、まずは養老孟司さんの「脳の機能のきわめて明晰な表現」と題する、まあ、青春時代のデカルトの本との出会いを記した一文。これは、あれ、こんなところに養老さん、という、一種の驚きを買うべき一文ですね。

次の二つは、訳者によるそれぞれの原書の成立過程、およびそれに絡んだデカルトの生涯について述べたものなのですが、これがなんと驚きの内容。

デカルトの生まれたのは1596年で、30年戦争の時代を生きた人。宗教色の濃い教育を受けながら、「手に入るかぎりの書物を(錬金術から魔術にかんするものまで含めて)読んだものの、迷いをはらし、確信を与えてくれるものは見あたらず、世界を知り、見聞をひろめようと旅に出、ヨーロッパ各地をめぐり、あるいは東欧にまで足をのばし…中略…各国の学者その他とひんぱんに文通によって意見を交わしながら、研究を進め、思索を深めた」とあります。

デカルトの学識は、哲学、神学のほか、物理学、光学、医学に及び、地動説を含む書物を出版しようとしたものの、ガリレオに対するローマの検邪聖省の有罪宣告の知らせを受けてこの部分を削除して本を書き直す、なんてことまでやっているのですね。

叙説の中で長々と記述している心臓の働きは、現代から見れば明らかにおかしい熱機関説に基づくものですが、ハーヴィのポンプ説も当時としては最新の学説ですから、要はデカルト、自然科学にも通じた人であった、ということになります。錬金術にしたところで、現代で言えば化学、という立派な学問分野。ま、魔術はなんだかわかりませんが、、、

で、自然科学にも通じた人、という見地からデカルトの説を私なりに解釈すると、エゴ・コギト・エルゴ・スム、なかなかに味わいがある、というよりも、現在に通じる諸学の基礎たるにふさわしい言葉、であるということに気づいたのですね。

デカルトにこだわらず、現代を生きる私なりにこの考え方を再構成すると、およそ次のことがいえるのではないでしょうか。

まず、この世の中に物理的に存在するといえるのは、空間に分布して複雑な運動をするエネルギー(電荷なども含めて考えてください)だけであって、色や形あるものというのは、人の精神が作り出した概念的存在であるということです。

色とは、物理的には、可視光と呼ばれる範囲の波長を持つ電磁波の波長(周波数)に対応しており、光子のエネルギーに対応するのですが、それをと呼び、と呼ぶのは人の概念。国や民族によって、色の区分となる波長はそれぞれに異なるのですね。魚や牛肉にしたところで、それぞれの民族の食生活によって概念の区分は変わってくる。(つまり同じ魚でも、日本人は、魚の成長段階に応じて呼び名を変えたりするし、アメリカ人は同じ牛肉でも、それがとられた牛の体の場所によって、さまざまに異なる名前で呼ぶのですね。)

でも、実生活においては、概念こそが重要でして、唯一物理的に意味のあるはずのエネルギーの空間分布では、いかに厳密に方程式を記述したところで、りんごの一つも買うことができません。

実は、そもそも、我々が思考するのも、概念の世界なのであって、その概念に意味があることを示す基礎は、コギトにある、というわけです。

ただ、デカルトの限界は、誰にとっても正当な、唯一の正しい概念がある、との誤解でして、これが正されるには、現象学と構造主義の登場を待たなければいけないのですね。

構造主義は、レヴィ・ストロースの未開とされた民族の研究に始まるもので、動物に近いと思われていたような未開民族の社会にも、西欧と同様に、しかし異なる、文化がある。で、人々の考え方は、その人が生まれ育った社会に依存している、という発見から始まりました。

現象学の依って立つところは、デカルトのコギトで、客観などない、主観が全てである、とします。でも、他人とはその主観が共有できる、間主観性に注目するのですね。でもこれ、所詮は主観ですから、相対的であり、唯一絶対の正しい概念は否定されます。

これらは20世紀にして初めて人類が手にした叡智でして、17世紀に活躍したデカルトに、そこまでを要求するのは無理な話。絶対的真実が存在するという誤解は根強いものであったわけです。その誤解があるから、神の存在証明は、デカルトにとっては正しいのでしょうが、今読む我々には、理解に苦しむ論理展開となる、ということなのでしょう。

真実は一つ、なんて、名探偵コナンも言ってますけど、その確信(盲信)には根強いものがあります。もちろん、唯一絶対の真実があっても良いのですが、人が認識する真実が真か否かは誰にもわからない。結局のところ、かつて宇宙に満ちているとされたエーテルと同様、その存在は、合理的思考体系の中からは、消し去るしかないのですね。

逆に、唯一絶対的な真実が存在するとすれば、それを意識する唯一絶対の神が存在しなくてはならない。デカルトの神の存在証明は、それなりに筋の通ったものであるように、私には思えます。ま、前提が間違っている、というのがちと問題、ではあるのですが、、、

まあでも、神の存在証明を別とすれば、デカルトの言わんとすること、現在の我々にも、心して聞くべき内容をはらんでおります。物理的存在と、概念的存在の区分、自然科学が発達した現代においてこそ、きちんと区別して考えなくちゃいけない、と思うのですね。

そして、何よりも、我々の実生活にとって大事なものは概念的存在であって、しかも、その概念を、いかに人類が共有するか、これが今の世界での最重要課題、なのではないでしょうか。