マインド――心の哲学――を読む

ジョン・R・サール著「MiND/マインド/心の哲学」を読むことといたします。サール氏は、「意識する機械はできない」とするのですが、私は意識する機械はできると考えており、本稿では、サール氏の主張に反論を加えることといたします。

1. 意識する機械の実現可能性

まず、意識する機械はできない、というのがサール氏の見解なのですが、これは受け入れ難い結論です。

何故に私が、人と同様の精神活動を行う機械は人工的に製造可能である、と考えるかといいますと、まず第一に、人の心を司っている臓器は脳であること、その生理的作用も徐々に明らかになる一方で、そこに何ら超自然的現象は見出されていないことがその理由です。

つまり、人の精神的活動は、物理現象のひとつであって、同じものを人工的に製造することは、単なる技術的課題に過ぎず、原理的に製造不可能であるとはいえません。

その技術的課題にしましても、脳の入出力はインパルスであり、脳で行われていることは情報処理。論理回路で再現可能なのですね。もちろん、規模が非常に大きい、という問題はあり、現実的な製造可能性、つまり、費用だとか、スペースだとか、製造に要する時間などが制約となる可能性はあります。しかし、電子技術の急速な発展により、いずれは可能になる。

まあ、粗々の計算では、2~30年後には、人の脳と同程度の論理回路(強い人工知能)は、技術的にも経済的にも、実現可能ではないか、と考えているわけです。

サール氏は、強い人工知能を否定する理由の一つに「中国語の部屋の問題」という反論を行っています。この部屋は、中国語のわからないサール氏が中国語での応答を与えるルールブックを持って部屋に閉じ込められており、外部からの中国語での質問に対して応答する、という状況を仮定してのものなのですね。

この場合、外部から見ると、正しく中国語の質問に応えている。だからチューリングテスト(外部から見て人と同様に応答するなら、それは人と同様の知能のあるものとみなす、というテスト)をパスしているのですが、サール氏は中国語を理解しているわけではない。だから、ルールブックに相当するプログラムを実行するコンピュータも、何も理解しているはずはない、というものです。

しかし、知性は全体としてあるかないかを論ずべきであって、部分に分けて論じることは何の意味もありません。ニューロンの働きも、その一つ一つの働きは非常に単純な情報処理を行っているに過ぎず、それだけを見れば、知性のかけらも見出すことはできないのですね。

この問題をややこしくしているポイントは、部屋の中にサール氏という、精神活動の担い手である人がいることです。しかし、自然科学のフィールドに意識、すなわち主観を織り込んではいけません。自然科学の世界では、実験対象をあくまで客観的に扱わなくてはならず、部屋の中のサール氏が中国語を理解しようと理解しまいと、そんなことはどうでも良い話なのですね。

2. デカルトの偉業

サール氏は、デカルトを心身二元論の祖、などとして簡単に否定しているのですが、この方の認識はすべての哲学の基礎にしても良いような、重要な点を含んでいる、と私は考えています。

デカルトのもっとも有名な言葉は、エゴ・コギト・エルゴ・スム、我惟う故に我あり、ですが、この言葉、惟う主体としての我の存在は否定できない、ということを述べております。

その一方で、自然界に物理的に存在しているといえるのは、空間に分布し運動するエネルギー(粒子)であって、その他のさまざまな事物、例えば椅子だとか、机だとか、林檎だとかいうものは、空間に満ちるエネルギーの一部に対して人の主観が与えた概念である、という趣旨のことを述べております。

さらには、この概念が他者と共有されている、という後の世の現象学の主張に近いことまでデカルトは言及しており、広く共有された概念が、いわゆる客観的世界である、ということも、おそらく認識していたのではないかと思います。つまり、客観といえど絶対的なものではなく、人の概念としての存在であるわけですね。

つまるところ、何が真実で何が真実でないか、ということは、人にどのように見えるか、ということであって、実はその内部がどうなっているか、といった、外部の人から知りえないことは、事実に対して何の影響も及ぼさないのですね。中国の部屋のサール氏が中国語を解そうが解すまいが、中国の部屋が精神活動を行っているかどうかという判断には、何らの効果も及ぼしません。

3. デカルトの限界

デカルトの書物は、ガリレオの地動説と同時代に発表されたものであって、バチカンの影響を強く受け、デカルトの本来の思想からは相当に隔たったものがあると思われます。それでも、彼が人の意識と科学的真実の関係を鮮やかに描き出していることは認めなければならないと思います。

デカルトの思惟の行き着かなかった領域は、人の心の奥の深さであって、意識されない世界でしょう。これは、フロイトの発見した無意識の世界もそうですが、より単純な、ニューロンのローレベルの情報処理も含まれるでしょう。

人の意識は感覚を経由して外界の情報を受け取っているのですが、感覚器が意識に直結しているわけではなく、何層もの意識外の処理を経由して、整理された情報として意識に上がっているのですね。同様のことは、人が外界に働きかける場合にも言えます。

これはたとえば言語情報を例にあげればわかりやすいでしょう。英語に不慣れな日本人が英語で話をする場合、語彙や文法を意識するのですが、母国語を話す人は意識しなくても妥当な単語が正しい文法で組み立てられるのですね。これは話を聞く場合も同じでして、言語表現の規則を意識することなく、話の内容が頭に入ってくるのですね。

私も以前、トム・クランシーの本を3冊ほど、苦労しながら原書で読んだことがあるのですが、そのあとでCNNのニュースを見るとはなしに見ておりましたら、中東のテロのニュースだけ、意識を集中しなくても話が頭に入ってくる。テロの光景が鮮やかに頭に浮かび、びっくりした経験があります。で、こんなことなら、もう少しまともな本を読むべきであった、などと反省したりもしたのですが、ま、これはどうでも良い話です。

言語を認識する能力以外にも、論理性を判断する能力であるとか、倫理の問題、美意識、価値の基準など、知性を離れた、ある種感覚的な人の精神的作用は、大部分が意識の外部で行われているのですが、人工知能を作る際にも、この部分の処理をきちんとする必要があるはずです。

オリジナル文書の固定ページにおきました実験的小説「レイヤ7」では、複素数(コンプレックス)を用いることで非論理的世界の処理も行っているのですが、恋愛シミュレータにコンプレックスを組み込みました、とか、リアル(現実の:複素数の実数部)な処理とイマジナル(仮想的な:複素数の虚部)な処理とか、しゃれの材料には事欠きません。まあ、この部分をきちんとすべき、という主張が霞んでしまっていたら、それは失敗、というものですが、、、

4. 人はなぜ意識する機械に関して混乱するのか

最初の節で、意識する機械はできない、というサール氏の見解に対し、私は、人と同様の精神活動を行う機械は人工的に製造可能である、と考えているのだ、というお話をいたしました。

この理由として、人の心を司っている臓器は脳であること、その生理的作用も徐々に明らかになる一方で、そこに何ら超自然的現象は見出されていないことをあげました。

そこに超自然的現象がないのなら、同じ働きをするものは人工的に再現することができる。問題は脳の複雑さなのだが、情報処理技術の飛躍的進歩に伴い、2~30年後には人の脳程度の装置は人工的に製作可能となるであろう、ということも述べました。

サール氏も基本的に、唯物論を受け入れており、私と同じような論理を展開しそうなものなのですが、結論が異なる。この理由として、意識の存在があるように思われます。

すなわち、大脳が物理法則に従う存在であることを認めてしまうと、主観があることが説明できない、自らが主体的に物事を考え、自由意志で行動していると考えている、自分自身の実感が説明できない、というわけなのですね。

しかし、物理法則に従う存在が意識を持つことがなぜ不自然であるのか、その点が釈然としません。まあ、そのように考える理由は、なんとなくわかるのですが、これが大いなる間違いである、ということを次にご説明いたしましょう。

5. 人の意識はアキュムレータであるということ

まず、唯物論的解釈に従うと、人の脳は計算機のハードウエアであって、心はソフトウエアである、と考えるのだそうですが、これは大いなる間違いです。

ソフトとハード、確かにぜんぜん別物のように考えている人は多いと思いますが、技術的には、相互に置き換えが可能なのですね。

例えば演算処理、昔のコンピュータは簡単な演算、例えば整数どうしの割り算などもソフトウエアで行っていました。でも、今日のコンピュータは、浮動小数点の演算までも、専用のハードウエアで行っているのですね。

更に、ハードウエア記述言語(HDL)などというものもありまして、高級言語で記述された、ソフトウエアというしかないものでハードウエアが定義されます。最近では、C言語でハードウエアを記述したり、C言語で記述されたソフトウエアの一部をハードウエアに落として高速化する、などということも行われるようになっております。

では、コンピュータで意識に相当するものは何でしょうか。私は、それは、アキュムレータである、と思うのですね。普通のコンピュータはシーケンシャル処理でして、アキュムレータも単純なのですが、人間の脳は並列処理を行っておりまして、アキュムレータ、といいますか、特別に柔軟な演算処理を担う部分も、相当に複雑な構成になっていると推察されます。

人の脳で行われている情報処理は、単純な反射的処理、例えば歩く、水を飲むなどの行動の制御だとか、言語の理解、網膜で得られた視覚情報の処理など、意識することなく行われている情報処理が非常に多いのですが、何事かを考えたり推理したりするとかといった高度で自由度の高い情報処理は特別な部分で行われていると考えるべきだと思います。

コンピュータシステムのアナロジーでいえば、人の行っている単純な反射的処理は周辺処理装置、例えばプリンタの制御部分などに相当し、メインの中央演算処理装置(CPU)とは異なるサブシステムが情報処理を行っている。これに対して、複雑な演算はレジスタ、アキュムレータ、演算処理ユニット(ALU)などを備えたメインのCPUで実行されます。

人が何かに意識を集中する場合、このために準備されたニューロンの部分に、種々の情報がロードされ、さまざまな推論が行われるはずです。これがいうなればコンピュータにおけるアキュムレータなりレジスタに相当する部分で、これらに結び付けられた論理演算ユニットがこれらの情報を処理する、というわけです。

情報処理装置を設計する際、並列処理とするか、シーケンシャル処理とするかは判断を要する問題でして、並列処理は高速ですが多数の論理素子を必要とする一方で、シーケンシャル処理の場合は限られた論理素子で膨大な演算処理を行える代わりに、処理速度が遅い、という特性があります。また、同じ処理装置を用いて、任意の演算処理が実行できるように装置を構成することも可能(CPUなど)でして、高い自由度を持つことができます。

脳は、基本的に並列処理なのですが、意識に対応する情報処理部分だけは、例外的に、シーケンシャル処理となっているのですね。

このため、意識的な思考は、同時にいくつものことが考えられない、時間がかかる、などの欠点はあるものの、一方で、きわめて複雑な概念も扱えますし、まったく新しい現象にも対応することができます。

このようなシーケンシャル処理を担うニューロン組織(アキュムレータ部)への特定の概念群のロードを、脳自身は「意識している」と捉える、と考えることができるのではないでしょうか。そう考えれば、意識も、それ自体物理的過程であるとみなすことも不自然ではなく、心身の問題は回避可能ではなかろうか、と思います。

例えば、睡眠はアキュムレータ部分の活動休止に過ぎない、と考えることもできますし、自己同一性は、アキュムレータ以外の部分、つまりは無意識の部分が担っている、と考える余地が生まれるわけですね。

6. 人の精神内に存在する属性

さて、私はデカルトの業績を高く評価するのですが、それは彼が、真に物理的に存在していると言えるのはエネルギーの空間分布だけであり、それ以外の属性は、全て人の概念としてのみ存在する、という意味の言葉を述べていることです。

以前のこのブログで、このあたりのことをオブジェクト指向プログラミングの概念との対比でご紹介いたしました。これを簡単に述べますと、ソフトウエアにおけるオブジェクトの実体はメモリ上の領域であり、物理的オブジェクトの実体が空間に分布するエネルギー粒子の特定の部分であることに対応いたします。

で、プログラマは、このメモリ上の領域をオブジェクトとして扱う。この場合のオブジェクトは特定のクラス(型)として定義され、そのクラス独特のインスタンス(変数)群が、そのメモリ上に配置されるとともに、クラスに対して定義されたメソッド(操作:演算処理手続きなど)をオブジェクトに作用させることで、種々の演算処理を定義するわけです。

で、人々が現実の世界に対処する場合も同様でして、空間に分布するエネルギー粒子の特定の部分を物理的オブジェクトとして認識する。つまり、何らかのクラス(型)にあてはめ、具体的な物理的オブジェクト特有のインスタンス(形だとか、大きさだとか、位置だとか)を自らが認識した物理オブジェクトに与えた上で、そのオブジェクトに対して可能であると認識している操作を施す、というわけです。

コンピュータプログラムにおいて、オブジェクトの実体は一連のメモリー領域である一方、ソースリスト上では個々に区切られ、独特の性質をもつ抽象的データ型として扱われるのと同様、物理的オブジェクト自体は人の外部に存在するが、概念自体はニューロンの内部に構成され、その概念に対して意識は作用する。これが心の問題を解く鍵となるのではないでしょうか。

だから、何万キロも離れた太陽に心が向かうのはおかしい、などという疑問は氷解します。心が向かう先にあります太陽は、太陽の概念であって、それ自体は脳の内部に存在するのですね。

7. 社会のもつ高次の知性

本書にはないのですが、心の問題を考える際に無視できないのは他者の問題、文化・社会の問題ではないかと思います。

人は自らが意識をもつと同様に、他者も意識をもっていると自覚しており、他者と概念を交換することができます。というより、日常的に行っているのですね。

更には、社会的権威の存在、文化、常識の存在を確信しており、大部分の概念は、これら文化・常識を受け入れて、自らのものとして保有しているわけです。

人の知的活動は、ニューロンの情報処理にのみ目が向かいがちですが、社会的な知的活動も無視できず、教育・研究機関の存在、学会の存在、出版や講演などの活動も盛んに行われ、これらの継続の結果として、人類が共通に持つ科学的知識やその他の概念を、今われわれが手に(ニューロンに)しているわけです。

10億の中国人に意識が生まれないことをもって意識を作り出すことはできない、との記述が同書にあるのですが、実は、50億の人類、すでに全体として知的活動を行っているわけです。

その英知は高く評価されてしかるべきである一方、それが多分に分裂症気味であり、多重人格的であることもまた事実でして、人類全体というこの知性体、精神的に病んでいる、とみなすべきではなかろうか、と私は考えております。まあこれは、余談、なのですが、、、

参考リンク:哲学の劇場:訳者の方が運営されているページです。