無思想の発見(養老孟子)を読む

相場からねぎま!まで、何でも読んでしまうこのブログですが、本日は、おとなしく、本を読むことにいたします。取り出だしましたる一冊は、養老孟子氏の無思想の発見です。

この題名、零の発見のぱくりなのですが、内容を一言でまとめますと、日本人の思想は、「無思想」という思想である、ということ。神に代わって判断の基準となるものは「世間」であるという主張です。

日本人の特殊性を強調した主張というもの、私はあまり賛成しかねるのですね。そりゃあ、日本人独自の考え方だってあるでしょうけど、そうした差異はどんな民族にだってあるもの。また、特殊といわれるその中身にしたところで、多かれ少なかれ、どの民族にも含まれているのですね。

日本人は世間をベースに考える、という主張にしてみたところで、海外に例がないわけではない。たとえば、リースマンの孤独な群衆()では、アメリカ人の中に他人に合わせる「適応型」が増加しており、この傾向は社会の安定さを損ねる恐れがある、と指摘しております。教会に通う行為にしたところで、神を信じるがゆえであるのか、世間にあわせてであるのか、判然としないのですね。

また、無宗教だというと、外人に怪しげな目で見られる、という点についても疑問がありまして、宗教を否定する思想の持ち主、共産主義者だと思われているだけかもしれませんし、宗教で人にレッテルを貼る人なら、確かに戸惑うのですが、そうした行為が妥当であるとも思えないのですね。

更に苦言を呈せば、ジブン、とかボクといった一人称の代名詞が二人称に転化することをもって日本人の特殊性を語るのですが、これは自他の境界があやふやであるが故の現象というよりは、話し相手にとっての一人称、すなわち二人称の代名詞を使用している、という行為にほかなりません。幼児に二人称の言葉で話すと、自分自身をキミとか言い出す可能性があるわけですから。

もうひとつの問題は、類型と個物の混同があちこちに見られること。意識という類型的概念と、誰々の意識という個物の概念が混同されている。オブジェクト指向プログラミングの言葉でいえば、クラスとオブジェクトを混同しているのですね。

だから、意識というクラスは、人であれば同じであるのですが、だからといって、それぞれの人の意識、というオブジェクトが同じである、という論理展開は少々無理があります。脳の構造は同じようであっても、それぞれの脳がもつ機能の一部(オブジェクトのインスタンス)は、それぞれに異なっていても良いわけですね。(このあたりの議論に関しましては、先週のこのブログをご参照ください。)

まあ、「自分探し」という少々甘えた考えに苦言を呈している点には共感を覚えますが、これをあっさり否定するのもどうか、と思います。自己の喪失が今日の大問題であることは確か、でして、これに対して個々人が対応しようという、そのこと自体は肯定的にみるべきでしょう。

さて、日本人の思想・宗教というものに対する私自身の考えを述べさせていただきますと、日本人の宗教観は、基本的には万物に霊的価値を認める自然崇拝、シャーマニズムでして、「もったいない」なんて言葉もここに基盤を置いているのですね。これに、仏教、儒教、道教などの教えが渾然一体と混ざり合い、現在の日本の宗教的状況を作り上げている、というわけです。

これら各教の始祖であります釈迦にせよ、孔子にせよ、老子にせよ、いずれも宗教的指導者、というよりも哲学者でして、その優れたものの考え方を受け継いだ後世の人たちが教会的組織を作り上げて宗教ないしそれに類する形になっております。そういった教会的組織の世俗的な力は、今の日本では弱い、というのも特徴的な点です。これは、悪いことではないように思います。

さまざまな思想や宗教が渾然一体となる現象は、日本人の特殊性でもなんでもなく、思考を深めるプロセスの中で自然に生じる現象であると思うのですね。元となる思想に一切の改変を加えないという考え方も、あるにはあるのですが、それは××原理主義、などと呼ばれる、少々過激な考え方であるわけです。

まあ、日本人、少々ルーズに過ぎる、ということは確かにいえるかもしれませんが、それは辺境に位置する混血国家であります日本の、民族的、歴史的宿命、であると私は思います。これも、嘆くべきことではなく、実は、人類が進むべき方向がそこにはある、と密かに考えております。

閑話休題、養老氏のご本に話を戻しましょう。

この本のわかりにくいところは、養老氏、考えをまとめて記述する、というよりは、ぽんぽんと言葉を投げつけてくる、少々おかしなこと、過激な言辞も随所に見られ、読者を惑わしてしまう、ということでしょう。でもこれらを読者なりに整理すれば、養老氏の言いたいことも見えてくるのではないかと思います。

まず第一に、思想などというものは、少々怪しげだし、悲劇の元となるものである、ということです。この本の中でも、オウムから過激派、国家神道の上で行われた太平洋戦争や文化大革命に触れられていますが、以前ご紹介した多文化世界でも語られていることでして、まったくその通り、です。理想の暴走には気をつけなければいけません。

第二に、感覚世界が最も確かである、ということ。眼前の事物は間違いのないものであり、自然科学もその確かさに基盤を置いている、ということです。

この観点から、中国に植林をしたらどうだろうか、と述べているのですが、経済活動、養老氏は搾取などといわれるのでは、などと心配するのですが、相互に足りない部分を補う活動というのが経済活動の基本ですから、公正さが失われさえしなければ大いに歓迎すべきこと。事物の上、というより物欲に支えられての活動、大いにやったらよいのでは、と思います。

まあ、そうは言いましても、倫理的基盤をどこに置くか、という困難な問題に対しては、即物的発想からは解は得られないはず。唯物論者、共産主義社会では、人の欲望を満足させる、欠如を補うこと、が課題とされたのですが、それだけでは精神的な充足感は得られなかったのですね。

で、この問題に対する解は、おそらく、眼前の事物を離れた、形而上学(メタフィジックス)的思考が必要になるのではないか、そう私は考えております。


今日の関東地方は雨。他に何もできないのをこれ幸いと、秋葉原から神保町あたりを散策してまいりました。で、発見いたしました一冊がMiND/マインド/心の哲学です。

この本、少々厚い本で、まだ半分も読んでいないのですが、なかなか丁寧かつ総括的に心の問題を扱っています。いずれここでご紹介いたしますが、全部読まないうちに内容をうんぬんすることは避けておきたいと思います。

それにしても、著者ジョン・R・サール氏のデカルトに対する認識には少々誤謬があるのではないか、少なくとも私のデカルトの説に対する解釈とはずいぶん違うなあ、との印象を、これまで読んだ範囲では受けております。

デカルトから現象学にいたる、客観性の否定、間主観性という視点を持ち込めば、心の唯物論的解釈はずいぶんと強化されるのではなかろうか、との、逆説的印象を受けるのですね。

まあしかし、このあたりのことを含めまして、読了後にじっくりと議論したいと思います。