日本人が獲得し損なった資本主義の精神、とは

ライブドア、村上ファンドに司直の手が伸びたことに続き、日銀総裁の村上ファンド出資問題を巡って、本日もニュースが出ております。これに絡んで、金儲けを第一に考えることの是非に関しては、日本人の間にも意見の対立がみられます。

私は、金儲けを考えることは当然である、との立場でして、でなくちゃこんなブログも書いちゃあおられません。そんな折、書棚の肥やしとなっておりました、マックス・ヴェーバーとアジアの近代化(富永健一著:講談社学術文庫1339)を読んでおりましたら、興味深い一節がありましたので、本日はこれをご紹介いたします。

この本、実は絶版になっておりまして、アマゾンからは古本が入手できる様子ですが、ここでは読者の便宜のために、少々多めに引用をすることといたしましょう。

マックス・ウェーバといいますと、知る人ぞ知る社会学の大家でして、特に社会の歴史的発展に詳しい方なのですが、アジアの近代化についても、西欧の資本主義の発展に対比して研究を行っているのですね。著者の富永氏、特にアジア社会について、マックスウエーバを下敷きに研究を行い、同書もその一環としてかかれているわけです。

で、日本は明治以来、急速に近代化に成功したのだが、「テクノロジーと制度の面で西洋資本主義のコピーを作り出したけれども、このことは必ずしも、精神の面において西洋資本主義のコピーを作り出したということを意味しなかった」と述べます。そして、「日本人は確かに西洋資本主義をコピーしたが、西洋資本主義の「精神」まではコピーできなかった」と続けます。

まあ、和魂洋才、ですから、このことは明治時代の人間も、みな自覚していたのでしょう。

で、「しからば、西洋資本主義の「精神」とは何か」という問いかけに、以下のように応えていく
のですね。

吝嗇の哲学は消極的なものにすぎない。私は、より積極的な定義を選びたい。すなわち、西洋資本主義の精神とは、「ホモ・エコノミクス」と呼ばれる人間類型によって端的に特徴づけられるものである、という定義がこれである。

ホノ・エコノミクスとは、いつも自己の利益を最大化することを求めている利己的な個人である。それはアダム・スミスの利己心の概念や、ヒューム、ペンサム、ミルの功利主義的思想に起源をもち、新古典派ミクロ経済学によって、「効用を最大化する消費者」および「利潤を最大化する生産者」としてて意識されてきた。

ははあ、つまり、ホリエモン、村上氏に代表される金儲けしか考えない人間、というのは、最近の日本では非難の対象になっているのですが、実は、そうした考え方こそが、西洋資本主義の「精神」であるというのですね。

まあ、ホリエモン達が一世を風靡したのはここ2~3年でして、この本が書かれました1990年代には、こういった資本主義の「精神」を持つ人たちは、日本ではほとんど目立たなかったのですね。

このような利潤追求の精神は、清貧を旨とする伝統的なキリスト教とは相容れない(*)のですが、ピューリタン(新教徒)の教えにはマッチします。で、新教徒がもうひとつ重要視した倫理が「勤勉」でして、人は勤勉を通して利潤を追求する、それが人のあるべき姿であるわけです。

* 清貧の教えは伝統的なキリスト教のものの考え方ではあるのですが、バチカンは、一時この考え方を異端とみなしていました。このあたりの事情は薔薇の名前(上)(下)をご参照ください。

このような西洋資本主義の精神に対して、アジアには勤勉という考えはない、というのがウェーバの考えであるようですが、東洋の社会学者は、自らの国にも勤勉の教えを見出している
のですね。

で、富永氏は日本における「勤勉」、「奉仕の精神」について、次のように書きます。

戦前日本においては、「国体」思想が天皇支配の正当性を根拠づける教義として制度化されていた。水戸学によってつくり出された国体思想は、記紀神話いらいの日本の古代的思惟を保持してきた神道および国学と、日本化された朱子学との混合による、天皇崇拝という一種の宗教であった。これを「天皇教」と呼んでよいならば、戦前日本人の「勤勉と禁欲主義」は、この天皇教の教義に由来するものとして説明されえるであろう。
……
この超自然的能力に対する信仰は、天皇に対する絶対服従を要求していた。戦争になったら、国民は、当時の言い方によれば天皇の「赤子」として赤紙一枚で招集され、戦場で「天皇陛下万歳」といって死んでいかねばならなかった。戦前日本の天皇教には、ヴェーバーが伝統的非合理主義をいいあらわすのに用いた「魔術の国」という語が最もよく当てはまるといってよいであろう。

まあ、この書き方も、少々一面的に過ぎると思いますが、戦前の日本人の勤勉さが、国家の繁栄と一体となったものとして考えられていた、ということは確かでしょう。90年代の社会学者が、一般的に、左よりであった、ということを念頭に読み解かなければならない文章、ではあります。

で、これが戦後どうなったか、といいますと、次のようになった、と述べるのですね。

さてそれならば、この合理化(敗戦による「魔術の国」解体)以後、日本人の「勤勉と禁欲主義」はどうなったのであろうか。天皇に対する忠誠は、戦後において企業に対する忠誠に置き換えられたのだ、とはいえないだろうか。
……
日本の資本主義においては、相互に激しく競争している企業はたしかにホモ・エコノミクスであるといえるにしても、企業の中の従業員個人はけっしてそうではない。一方では、彼らは好況期においては、余暇を返上して残業に励み、「過労死」さえも甘んじて引き受ける「企業戦士」である。……日本の資本主義を動かしている担い手たちの「精神」は、新古典派的な功利主義的・個人主義的な資本主義とは、おどろくほど違ったものであるといわなければならないであろう。

昨今の事件を通じて考えますことは、現在の私から見ますと、日本にもやっと「資本主義の精神」が根付いてきたのではなかろうか、それが古くからの倫理観と対立しているのが、村上ファンドなりライブドア事件などの周辺に渦巻く国民の間の意見対立なのではないか、と思われるのですが、富永氏のこの著作は1990年代のものでして、もう少し別の結論へと到達しています。

東洋の儒教的資本主義の精神は、個人主義的な合理主義の貫徹に大きな限界をもっているが、西洋的なゲゼルシャフト化の行き過ぎを中和し得る長所をもっている。資本主義と共産主義との対立による冷戦体制が解消したあとに、21世紀に向けて西洋資本主義と東洋資本主義との並存の時代がやってくることは、このような両者の長所と欠点を補い合う上で、よいことなのではなかろうか。

まあ、最近、日本的経営が再び見直されていますが、それとこれとはちょっと違うような感じもいたします。たしかに勤勉の精神は大事ではあるのですが、個人主義的人間を前提とした諸制度の上に、これとは異なる精神を載せる、ということには相当に無理がありそうでして、東洋の精神に個人主義をミックスする方向に進むしかないのではないか、と私には思われます。

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