現象学者の恨み節?「よみがえれ、哲学」を読む

今朝方「コギトに帰れ」などと書いたためか、ちょっと気になって「よみがえれ、哲学」を読み返しました。現象学者、竹田青嗣、西研両氏の対談形式のこの本は、お買い得NHKブックスの本体価格1,120円となっております。

今日は久しぶりに太陽かんかん照りの休日、プールサイドのデッキチェアに横になり、本で太陽を隠しながらの読書は極楽気分なのですが、極楽気分に輪を掛ける存在もちらほらありまして、なかなか活字に視線が集中しないのは少々困ったものです。

とは申しましても、この本、半月ほど前に一度、読み通しておりまして、本日は再読。顔に日陰のビーチパラソル代わりだと思えば大して気にもなりません。

私は個人的に、西研さんの現象学は嫌いではなく、以前哲学的思考をご紹介したこともありました。この本、最近は筑摩学芸文庫版もでているのですね。こちらは半額、お買い得です。

さて、「よみがえれ、哲学」なのですが、最後の方に、ネオコンと戦争の話だとか、格差問題だとか、まあ、面白そうなことが色々と書かれているのですが、どうも新聞に出てくる文化人的な、あたりさわりのない話に終始して、今ひとつインパクトがありません。

で、最初の方に書かれております西氏の言葉「進歩的知識人の一人となって生きていくつもりだった(p18)」の一言で唖然としたのですが、この言葉にこの終章の書き方がオーバーラップしているところが、いかにも、なんだかなあ、、、という印象を与えているのですね。

まあ、つまるところ、自らを「進歩的知識人」と規定するということはすなわち、他の人達を「遅れたバカ」と規定することでして、ほとんどネギま!の世界なのですね。

まあしかし、自分は進んでいて他人はバカである、などということは、多少賢い人達は多かれ少なかれ考えていることで、それをしゃーしゃーと書いてしまうというこっ恥ずかしい行為には唖然としてしまうのですが、それも正直さのなせる業。ネギま!の世界と同様、こちらも、大目に見ることにいたしましょう。

さて、本書の内容ですが、デカルトから今日に至る哲学史を、熱く、概観しているところは思わず引きずり込まれる迫力があります。哲学を勉強しようという人なら、気合を入れるためにも一読して損はない本です。

ただし注意すべきことは、あくまで現象学者の立場で書かれた本である、という点を忘れてはいけません。まず、現象学者ですから、ヘーゲルを再評価し、フッサールは全面的に肯定いたします。デカルトはコギトの人ですから、一定の評価が与えられます。

デカルト以後の思想家は、ルソー以外、あまり評価されません。しかし、この当時の自然科学の発達と信仰の問題は、今日の我々が考える以上の大問題であって、おそらく今日の哲学においても、それが世界人類の共通認識となることを願うなら、神についても、きちんとした答えを出しておく必要があるでしょう。スピノザの汎神論は、自然科学者にとっては一つの救いとなりえたのですね。

次にこてんぱんにやられるのがポストモダンの思想です。私もポストモダンには否定的な印象を受けているのですが、リオタールのポスト・モダンの条件などは、非常にまともなことが書いてあるように思います。これにつきましては、以前のこのブログをご参照ください。

一つ不思議なことは「よみがえれ」は、構造主義をすっ飛ばしております。ポストモダンは、レヴィ・ストロースを嚆矢とする構造主義に礎を置いておりまして、多文化並存を受け入れる代わりに普遍性獲得の試みを放棄してしまったところにポストモダンの限界があったのですが、西欧の文化を普遍文化とする考え方を否定したこと自体は、非常に重要なポイントであると思います。

で、ここを深読みいたしますと、ポストモダン憎しの情念のなせる業ではなかろうか、との印象を受けるのですね。

なにぶん、1970年代は、哲学といえば現象学、という時代でして、自他共に優秀と認める哲学の徒が、多数、現象学に走った時代です。ところが、現象学は厳密さを追求するが故に、手続き論を掘り下げ、極めて難解な学問となってしまいました。手段が目的化し、現実の問題を解く力とはなり得なかったわけです。

一方で、米国はベトナムに戦争で敗れ、OPECが力を増してイスラムが発言力を強め、日本の工業製品が世界を席巻するようになりますと、多文化並存の構造主義が広く世間に受け入れられるようになり、これを換骨奪胎いたしましたポストモダンの思想が広まることとなりました。

たしかにポストモダンの思想家は、傍観者的立場に身をおき、あまり好感が持てる態度ではないのですが、少なくとも、世界を解釈し、現状を理解する役には立っていたわけですね。ポストモダンは、問題解決にはほとんど貢献しなかったものの、評論家としては充分な働きをしたわけです。まあ、その分、妙なレトリックに走りがちで、まじめな現象学者としては眉をしかめたくもなるとは思いますが、、、

また、主観と無関係な普遍的真実を否定し、客観などない、と言い切った現象学の結論も、ポストモダンは引き継いでおります。とはいえ、厳密な還元手続きに拘らないその姿勢は、現象学者には我慢できないものであったのかもしれません。このあたりは同書が言及しておりませんので、なんとも判断いたしかねるところですが。

その他、「よみがえれ」が批判の的としておりますのは、ラッセル、ヴィトゲンシュタインの論理哲学者です。こちらは、哲学というよりは、数学に近い、論理の世界の人達ですから、あまり熱くならなくても良いように思います。

で、全体を通しまして受けた印象が、現象学者の恨み節。現象学が時流に外れ、ポストモダンやヴィトゲンシュタインがもてはやされた悔しさはわかりますし、ポストモダンが何ものも生み出さなかったことも事実です。しかし、それでは現象学が何かを生み出しえるか、と考えますと、これも難しい。

もちろん、西・竹田の両氏は、近代哲学を概観することで、新しい哲学、社会思想を生み出さんとする、その意欲は同書の中にも現れているのですが、それなら、ポストモダンを切り捨てるだけではなく、この思想がもてはやされた背景にも、踏み込んだ分析が必要だったのではないか、と思う次第です。ヘーゲル流に言うならば、ポストモダンを止揚(アウフヘーベン)しなくちゃいけない、というわけですね。

まあしかし、かりにそれが恨み辛みによるものであったとしても、今の時代、思想に熱くなれることは、それなりに幸せなことであることも、また事実、ではあるのでしょう。