デカルト的省察におけるフッサールの客観再定義

以前のこのブログで「現象学は客観を否定してしまった」、「客観という用語を再定義しなくてはならない」、などと書いてしまいましたが、現象学の創始者、フッサールは、客観という言葉を再定義して使っている、ということに気付きましたので、本日はこのお話をいたしましょう。

1. フッサールによる「客観」の再定義

客観の再定義がすでにフッサールによって行われているならば、このブログでも、何も力をいれて「再定義」などという必要はなく、粛々とフッサールの定義を受け入れるだけで済みそうです。これは少々気の抜ける話なのですが、一つ面倒なことが片付いた、ということもまた事実でして、ありがたい話ではあるのですね。

以下、デカルト的省察(中央公論社:世界の名著62、船橋弘訳、1980)より該当個所を引用し、簡単な解説を加えます。(同書は現在品切れですが、岩波文庫版は在庫あり、となっております。訳は異なるのでしょうが、内容は、多分、同じはずです。)

まず、第49節でフッサールは次のように述べます。【】内は私の注、色も私が付けたものです。

客観的世界という存在意味は、わたしの第一次世界【自我の世界、主観】の基盤の上に、いくつかの層を重ねることによって構成されるのである。それの最初の層としては、他我あるいは他我一般を構成する層、すなわち、わたし自身の具体的存在〔第一次自我としてのわたし〕から排除された自我を構成する層が浮き彫りにされなければならない。

他我を構成する層が浮き彫りにされると同時に、しかもそれに動機づけられて、わたしの第一次世界の上に、普遍的な意味の層が重ねられ、そうすることによって、わたしの第一次世界は、規定された客観的世界、すなわち、わたし自身を含めた全ての人にとって一つの同一の世界としての客観的世界現れになるのである。したがって、わたしにとって本来最初の他なるもの〔最初のわたしでないもの〕は、他我である。そしてその他我が、他のものの新しい無限の領域、すなわち、全ての他我とわたし自身を含む客観的自然と客観的世界一般との構成を可能とするのである。

先ほど、岩波文庫版も手に入れましたので、この部分を岩波文庫版から引用してみましょう。

客観的世界がもつ存在の意味は、私の原始的世界という基礎のうえに、多くの段階を経て構成される。最初の段階として際立てられるのは、私の具体的な固有存在から(原初的な我としての私から)は排除されていた我である「他者」、あるいは「他者一般」の構成という段階である。それと一つになって、しかもそれによって動機づけられて、私の原初的な「世界」のうえに一般的な意味の積み重ねが行われ、それによってこの「世界」は或る特定の「客観的」な世界「の」現象、すなわち私自身をも含めて万人にとって同一の世界「の」現象となるのである。それゆえ、それ自体で最初の異なるもの(最初の「非-自我」)は他の自我である。そして、これが構成という観点からすると、異なるものの新しい無限の領分を可能にする。つまり、客観的な自然を可能にするとともに、あらゆる他者とともに私自身もそこに属する、およそ客観的な世界を可能にするのである。

そして第56節では次のように述べます。

いうまでもなく、そのような先見的相互主観性は、省察する自我としてのわたしのうちで、すなわち、わたしの指向性の源泉から純粋にわたしに対して構成されるのであるが、それにもかかわらず、その相互主観性は、という変様において構成されるあらゆる主観を通じて、同一のものとして、ただそれぞれの主観における現れ方においてのみ異なるものとして構成されるのである。そしてまた、その相互主観性は、同一の客観的世界を、必然的にみずからのうちで支えるものとして構成されるのである。

岩波版では以下のようになります。

それ【超越論的な間主観性】は言うまでもなく、純粋に私のうち、つまり省察する我のうちで、純粋に私の志向性という源泉から私にとって存在するものとして構成される。にもかかわらず、それは(「他者」という変様をもった)それぞれのモナドのうちで、異なる主観的な現出の仕方をもちながらも、同じものとして構成される。しかも、同じ客観的世界を必然的に自らのうちに担ったものとして構成されるのである。

フッサール以前は、「客観」を、主観と独立に存在する普遍的な真実である、という意味で用いていました。そして、人の主観を客観に近づけることが知性の働きであると考えられていたのです。しかし、このような意味での「客観」に人は永久に到達できないことは明らかですし、「客観」は想像上の概念であって、そもそもそのようなものが存在するのかどうかも疑問ということになりました。

フッサールはこうした意味での客観を否定し、デカルトの「思惟する我(コギト)」の上に全ての概念を組み立てました。そして、客観も人の主観の中の存在であると説いたわけです。

2. 独我論ではなく

フッサール以後の現象学者は、「客観」には否定的立場をとります。これは、フッサール以前の絶対的な意味での「客観」を否定してのことと思いますが、フッサールが行ったことは、「客観の否定」というよりは「客観の再定義」ではないのか、と私には思われます。

「主観」と「客観」を対比して捉えるのであれば、「客観も主観のうちの存在である」となりますと、フッサールの定義する「客観」に多くの意義を認めないと考えるのも無理はありません。しかし、客観を軽視したのでは唯心論なり独我論なりに陥る恐れが多分にあります。

上に引用したフッサールの言葉は、そのような懸念を振り払うために述べられているように私には思えます。すなわち、他我(他者の自我)を通して普遍的な客観世界を自らの(主観の)うちに構成する、というわけです。

そしてこのように、間主観性の上に構成された「客観」こそが自然科学の礎となるわけですから、この客観の再定義はフッサールの思想の中でも、極めて重要な部分ではないかと思われます。

以前のこのブログ「うぬぼれる脳、を読む」でご紹介いたしました「うぬぼれる脳」では、人は18ヶ月にして自己の存在を意識し、ついで自らと同様の主観を持つ存在として他者の存在を意識するという実証的研究結果を紹介しております。他我は単に想像上の概念ではなく、今日では科学的実験に裏付けられた概念となっているのですね。

このような客観世界であれば、各人の意識(主観)の中での世界であるとしても、自分自身とは別の、他者の主観にもかなう普遍性を持った世界として認識されているはずです。自らと他者を含む世界とは、その人々の属する社会であり、その社会において普遍姓を持つ概念が存在する、ということを人は意識しているということになります。

3. 絶対的基礎としての客観

最後に、同書第64節の結語から、少し長めに引用しておきましょう。

哲学において本来最初の部門は、独我論的制限をもつ自我論、つまり第一次領域に還元された自我に関する理論であり、そのような自我論の後ではじめて、その自我論に基づく相互主観性に関する現象学が現れてくる。しかもこの現象学は、最初は普遍的問題を取り扱う普遍的形式のもとで現れ、そのあとではじめて、アプリオリな諸学問に分岐するわけである。

アプリオリなものに関するこのような学問の全体は、真の意味での事実科学、およびデカルト的意味での真の普遍的哲学、つまり事実として存在するものに関する絶対的に基礎付けられた普遍的学問に対する基礎となるであろう。

岩波版では次の通りです。

順序から言えば、哲学的学問分野のそれ自身最初のものは、「独我論的」に制限された「自我論」であり、その次に来るのが、この「自我論」に基づけられた間主観的な現象学、しかもまずは普遍的な問いを扱い、それから初めてアプリオリな諸学へと分岐していくような普遍性における間主観的現象学であろう。

これらアプリオリな学問の全体が、次には、真性の事実的諸学、すなわち絶対的な基礎づけをもつ、事実的な存在者についての普遍的な学、これらの学のための基礎となるだろう。

このような書き方は、現在では少々問題があるものと思われます。自我と他我を含む世界とは、すなわち社会であり、文化・常識を共有する人々の集まりに過ぎませんので。このあたりにつきましては、節を改めて議論いたしましょう。

4. フッサール的客観の限界

たしかに自然科学の領域では、常識の共有は比較的容易であり、人類全体を包含する社会全体での普遍的真実に到達することもできるでしょう。しかし、社会関係や宗教などとなりますと、人々はそれぞれが生まれ育った、社会的・自然的環境の影響を色濃く受け、常識の共有は人類全体から比べると狭い社会の範囲にとどまるものと考えられます。

構造主義が投げかけた問題はその点にありまして、多文化並存の相対主義を受け入れるなら、普遍的客観世界をいきなり絶対的事実にまで格上げするのではなく、まずは社会のレベルで普遍性を有する真実にとどめておく必要があるのではないかと思います。

上に引用しましたフッサールの「つまり事実として存在するものに関する絶対的に基礎付けられた普遍的学問」における普遍性は、かつて考えられていた客観の概念とは異なり、「広く人々に受け入れられる」という程度の普遍性ではないかと思われます。

と、いいますのは、フッサールの「客観」は他者とのコミュニケーションで成り立つ「間主観性」の上に作られるものであり、その妥当性は間主観性を成り立たせるに充分なコミュニケーションの存在する範囲内、すなわち、特定の社会集団の内部でのみ成り立つ「客観」であるからです。

すなわち、フッサールの論証の必然的帰結として、「客観」は「特定の社会」の内部における普遍性であり、構造主義の主張と矛盾するものではありません。ただ、ここでフッサールが意識している「学」は、万人に受け入れられることが期待される自然科学であり、本書では「特定の社会」は「人類社会」を強く意識した書き方となっています。しかし、論理の展開上、ここまでの普遍性は要求されないことは上に述べたとおりです。

また、自然科学の領域においても、客観的真実とされる学説も後に否定されることがあり、仮に人類全体に対する普遍的真実であろうとも、「現在の人類全体」という、時間的に限定された社会における普遍性しか保証されません。このことは、人の意識を超越した絶対的な真実を否定しているフッサールには、当然のこととして理解されていたものと思われます。

結局のところ、「客観」という言葉はフッサールによって再定義され、かつての「主観とは独立に存在する普遍的、絶対的世界」を意味するのではなく、特定の社会に属する人々が互いに他者の主観を理解することで作り上げられる、主観の上の「客観世界」であるという意味が、新たに与えられたと考えるべきでしょう。