西研さんの「哲学的思考」を読む

西研さんの「哲学的思考」、半分ほど読みましたので、まずはここまでの感想などを書いておきます。

それにしても本日は暑い日で、プールサイドのデッキチェアでの読書は、あまりはかどりません。少し読むたびにプールに飛び込む、なんてことをやっていますと、いつまでたってもページが先に進まないのですね。おまけにこの本、えらく厚い本でした。つまり重たくて、ビーチパラソル代わりにはなりにくい本です。

暑いに厚いが重なって苦渋の一日でしたが、まず、半分読めただけでも良しとしなくちゃいけません。ま、明日も雨が降らなければ続きを読むといたしましょう。

と、いうわけで、内容なのですが、「フッサール現象学の核心」と副題にありますように、フッサールの思想について、克明に述べた本です。

フッサールが書いた書物は、全般的に言いまして、実にわかりにくい本でして、以前ご紹介しました「デカルト的省察」は、例外的に読みやすい本なのですね。そういう意味で、このような丁寧な解説書がありますと、大変に助かります。

とはいえ、大きな問題は、これはフッサールの思想自体の持つ問題点なのかも知れませんが、客観を普遍化しすぎているきらいがあることなのですね。

まず、客観には二種類の意味合いがありまして、これをきちんと区別して扱わなければいけない、と私は考えています。(超越論的主観、といった意味合いは、ここでは否定いたします。)

第一の意味合いは「客体」と言い換えた方が良いかもしれない意味合いでして、主観の外側に厳然と存在する物理的世界のことでして、エネルギー粒子の空間分布とでもいうべき存在で、幸いなことに、保存性、法則性の元に動いているように私達には感じられる存在です。

なにぶん、手帳を開きますと、書いた当人はすっかり忘れていた大事な予定が書いてありまして、それを読むと、書いたときの情景を思い浮かべることができるのですね。このときの手帳に書かれた内容は、主観の外にある存在です。何しろ、それを、手帳を開くまでは忘れていたわけですから。

手帳は物理的には、セルロースの薄片をを束ねたもので、そこに付着したカーボン粒子が複雑なパターンを描いているにすぎません。それを人が見て始めて、人の意識はそこに書かれた意味を見出します。これは主観のなせる業でして、客体としての手帳自体は、人がそれを読むことで意味を見出すという可能性をはらむものの、意味内容が人間精神と独立して存在するわけではありません。

客観の第二の意味合いは、他者と共有された主観、という意味で、フッサールの言う客観と同じ意味合いです。

ややこしいことに、第一の意味合いでの物理的存在は、私に対すると同様に、他人の知覚にも働きかけ、私がその物体に対して持つと同様の認識を他人も持つ、という特徴があります。そうなりますと、私の手帳という物理的存在に対する概念は、私独自のものではなく、他者と共有された、第二の意味合いでの客観的概念ともなります。

ただしこの場合、これをカーボンが付着したセルロースの束であるとする概念はあまり普通ではなく、私の予定などが書かれた手帳としての概念を、みなが共通に持つ、というわけです。他人に覗き見をされたりいたしますと、その意味内容を他人に知られてしまうのですね。

自然科学は第一の意味合いでの客観(つまり物理的世界)を扱う学問です。学問は、すぐれて精神的な働きによってなされるもので、これに携わるものの精神(主観)はそこに一般概念(種類分け、型の定義)を見出し、その構造なり振る舞い(法則)なりを明らかにします。そうして得られた概念を他の人々との間で共有すること(つまり、第二の意味で客観とすること)で、学問として成り立ちます。

物理的な世界という意味での客観は、古今東西、まず変化しないのですが(地球温暖化などの新しい問題もないわけではありませんが)、そこに人々が見出す法則は時とともに変化します。

19世紀に絶対的な真実であると考えられていたニュートン物理学は、20世紀に入って、相対性理論と量子力学の登場により、近似的な理論であるとされました。実際のところでは、19世紀においても、マクスウェルの電磁理論はニュートン物理学と矛盾しており、物理学者はニュートンの物理学を100%信じていたわけではありません。その矛盾点を解明するための干渉実験がローレンツ収縮を導き出し、特殊相対性理論へと結びついたわけです。

それにしても、時間は虚数的に振舞う、と一言いってしまえば、マクスウェルの理論とニュートン物理学の矛盾は消えていたはずだし、ローレンツ収縮も特殊相対性理論も不要でした。実はこうすることで四元ベクトルの演算もすっきりいたします。四元ベクトル表示にした以降は実装部分は隠され、どちらも同じ扱いになりますから、一般相対性理論には何の変わりもありません。

一つの複素数の虚部と実部を、それぞれ直交座標の異なる軸に取り、いずれも実数的に扱う、複素平面という数学的技法は広く知られているのですが、一方の軸を本物の虚数として扱うやり方はあまり一般的ではありません。

たとえば、複素平面では、ベクトルの回転に単位ベクトルとの乗算を使うのですが、これは実数軸と虚数軸をいずれも実数として扱っているからできる話で、実際に平面が実数軸と虚数軸との間に張られているといたしますと、その平面内の角度は、実数では表されません。簡単な話、この平面内に引かれた直線の傾きを表すタンジェントは、実数と虚数の比ですから、虚数になります。

ホーキングの虚数時間は、元々実数で扱われていた時間に虚数的な性質がありますので、虚数時間は空間軸と同じように扱える、というわけで、虚数軸を含む空間、などというややこしい話にはなりません。つまり、ホーキングの説では、宇宙の始まりの頃には時間は虚数であったそうですが、現在の時間を虚数として扱うなら、宇宙の始まりの頃には時間は実数であった、としなくてはいけないわけですね。

とはいえ、時間を虚数とみなすアプローチをとった場合には、虚数軸を想像する困難さを代償に、ローレンツ変換を単なる回転変換に置き換えます。時間軸を虚数に取れ、というのも、ローレンツ変換を受け入れろ、というのも、どちらも、同じ程度にわけのわからない要求ですから、どちらを受け入れることにも、さほど差があるようには思われません。

現在の物理学の授業では、特殊相対性理論とローレンツ変換から教えているのですが、これは、物理学の発展の歴史故にそういう把握がなされているに過ぎず、時間の虚数性が先に提唱されていれば、時空に対するものの見方もかなり異なったものとなっていたはずです。ま、理論的には等価であるのですがね。

そういえば、同書57ページに三角形の内角の和は二直角である、という証明がなされているのですが、これはどちらもユークリッド幾何学の第5公準と呼ばれるものでして、この証明自体は間違いではないのですが、どちらを公準としても差し支えありません。つまり、平行線に交わる直線のなす錯角は等しい、ということを公準に選んでも、三角形の内角の和は二直角である、ということを公準に選んでも、ユークリッド幾何学の論理体系は同等なのですね。つまり、証明するまでもなく、三角形の内角の和が二直角になるのがユークリッド幾何学である、と言ってしまっても構いません。

で、大事なことは、第5公準は外しても良い、という提案が19世紀初めになされ、20世紀に入りますと、ユークリッドの第5公準はこの宇宙では成り立っていない、ということが明らかになりました。つまり、三角形の内角の和は、厳密に言えば二直角ではなく、ユークリッド幾何学もニュートン力学と同様、近時理論にすぎないことが判明しました。もちろん、公準なり原理を受け入れた場合、その先の論理展開は間違ってはおりません。でも、その原理の部分がこの宇宙では成り立っていない、というわけです。

とはいいましても、現在の社会におきましても、ユークリッド幾何学もニュートン物理学も、充分に実用的な理論でして、その誤差を補正しなくてはならないような業界はごく少数に過ぎないことも、また事実です。物理学にせよ、幾何学にせよ、その学問の成果は、客観的な真実、というよりは、その時代のそれぞれの社会(業界)に受け入れられる、自然を記述する一つの方法に過ぎないのではないか、と思うのですね。

フッサールのあとに出ました現象学者のメルロー・ポンティは、「原理から説明することはできない。できるのは現象を記述することだけである」ということを強調しております。物理学にできることも、宇宙の根本原理を提示することではなく、諸物の振る舞いを記述することではなかろうかと思います。自然科学に対するこのような考え方は、おそらくは現象学の王道であり、フッサールの考えとも矛盾しないのではなかろうか、と私は想像しております。

諸物の振る舞いを記述する、ということを私なりに言い換えますと、空間に分布するエネルギー粒子の振る舞いを抽象的な概念で記述し、これを他者と共有する、ということになります。この他者と共有された概念こそが客観的概念でして、さしあたりこの社会で事実とみなしても良い、ということになるわけです。


というわけで、あまりの暑さに避難いたしました、とあるビル、上のほうの階に大きな書店があるのを思い出して、入ってしまったのが運の尽き。「現代日本のアニメ」、著者スーザン・J・ネイピアはテキサス大学の教授でして、日本アニメについて熱く語っております。ああ、暑い一日、厚くて熱い本が二冊になってしまいました。明日は、どうしましょう、、、

それにしても、扉裏の献辞が傑作です。
ジュリアへ―――「月にかわってお仕置きよ!(Moon Prism Power!)」

この英語、…お仕置きよ、の英訳ですかね? あの決め台詞、In the name of the moon I shall punish you! ですよねえ。あ、これ、和訳の際の誤訳ですね。ここは「ムーン・プリズム・パワー・メイク・ア~ップ!」が、きっと、正しい翻訳です。大体、そうじゃなければ、献辞には不適切ですよね。

ま、セーラームーン、もしも良くご理解頂けない場合はこのページを御覧ください。カーソルを真ん中の「うさぎちゃん」に合わせて、テレビをクリック、第一話から選択していけば、セーラームーンの雰囲気がわかっていただけるのでは、と思います。(2017.1.19追記:このページ、全然違うものになっていますね。これはこれで凄いものですが、ここに書きました文章とは、かなり異なるものとなっております。)

しかしこれ、まだ新作を追加していたとは、、、


続きはこちらです。


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。