「物理世界のなかの心」を読む

長い夏期休暇も中盤となりました本日、10時ごろには相場の行方も見えてきましたし、天気も悪い、ということで、神保町を散策してまいりました。本日は、買い求めました本の一冊、速攻で読破いたしました「物理世界のなかの心――心身問題と心的因果」をご紹介いたしましょう。

この本は、米国ブラウン大学哲学科の教授ジェグォン・キム著、太田雅子訳で勁草書房からの出版は本年7月20日の初版と、このブログで扱う本にしては例外的に新しい本です。

同書のテーマは、表題にありますとおり「心身問題」です。デカルトの心身二元論にはじまりますこの問題、今なお論議の的となっておりまして、この本でも多くの考え方が紹介されております。

で、ここでのキーワードは「スーパーヴィーニエンス」。すなわち、痛みを経験するならばそこに物理的原因がある、というわけでして、次のテーゼを掲げます。

心的性質は物理的性質にスーパーヴィーンする

ここから、著者はヴィトゲンシュタイン流の論理哲学を展開するのですが、私のみる限り、これはあまり成功しているようには思われません。結局のところ、心的世界と物理的世界は異なる論理空間に属するものであって、この間の橋渡しは非常に困難かつ不毛な行為なのではないか、と思われます。

そもそも、デカルトの心身二元論は、空間的広がりのみをもつ物理的実在である「延長」としての身体と、思惟する我(コギト)である精神的主体(主観、心)の二元論とされるのですが、これらは二つのもの、というよりは、同じものの二つの面であって、「心身二面論」とでも称すべき考え方であるように、私には思われます。

もちろん、デカルトがこのようなことを明確に述べているわけではありません。それどころか、延長である身体と別個の存在として魂の存在を肯定する記述がなされています。

デカルトがこのような記述をした理由は、あるいはデカルト自身、有限の生命をもつ身体とは独立に、不滅の魂が存在する、という信仰上の教えから逸脱することができなかった、という可能性もありますし、また、真意は心身二面論にあったものの、バチカンの存在ゆえにこれを書物に書きあらわすことがはばかられた、という可能性もあります。いずれにせよ、今日の私たちは、誤った記述を受け入れる必要はなく、自由な立場で真理を追究すべきであって、デカルトの言葉に束縛される理由はありません。

さて、心身二面論を解説いたしますと、物理的に存在しているものは、名もなく区別もない、単なる物質の空間的な広がりであり、人の精神がそこに、諸物の概念なり、性質なり、因果関係なり、法則なり、を見出しています。他者もまた私と同じ概念を、これら物理的存在の上に見出していることを私は確信しており、これらの物理的存在は(フッサール的な意味で)「客観的存在」となりえます。

ややこしいことは、自分自身の存在でして、人は自らの身体を物理的存在であるとみなすと共に、その身体を通して(自らを含む)世界を認識しています。この結果、自らの身体は主観の中で、特別な位置付けがなされます

哲学は、伝統的に、自省、反省から世界について考えるというアプローチを取るのですが、自らの身体の特殊性ゆえ、その世界観は偏ったものにならざるを得ません。自分の存在を一旦棚に上げ、他者のみを分析することで世界観を形成するというアプローチをとれば、このような困難さは解消されるものと思われます。すなわち、上のテーゼに代え、次のようなテーゼを立てればよいのですね。

心的現象は物理現象に還元される

そもそも、人の脳内で生じているさまざまな活動は物理・化学的現象で説明され、そこに何の超自然的効果も認められておりませから、この活動は物理現象で説明できるものと考えられます。もちろん、人の脳の構造はきわめて複雑であり、その説明もまた、相当に複雑になるものと思われますが。

さらに、物理現象としての精神活動は、筋肉の動きなどの物理現象として現れ、その物理現象自体には意味内容は含みません。そこにさまざまな概念を認めるのは、人の精神的活動であり、結局のところ、精神的世界の論理の枠内でしか、この現象を扱うことはできません。

すなわち、著者の言うスーパーヴィーニエンスは、物理現象である神経の痛みが被観察者の主観に現れ、これに対する被観察者の心が彼の表現(筋肉の動きなど)となって現れ、観察者と被観察者の概念の共有を背景として、観察者に伝達される、というメカニズムである、と考えることができます。

人は世界を二つの見方で観ております。一つは、概念と意味内容の世界でして、もう一つは最後には素粒子にまで還元される、物理的世界です。物理的世界は、それ自体では、名もなく区分もない世界ですが、人の精神は、物理的世界それ自体にもさまざまな概念を認め、階層的により下位の世界(医学・生物学のレベル→化学のレベル→物理学のレベル→云々)に還元して理解しています。

このことは、本やマンガをイメージしていただければわかりやすいと思います。

人は本を読むときに、そこに意味内容を見出しているのですが、その本はまた、セルロースの上にインクが付着した物理的存在である、ということも知っております。

本やマンガに書かれた内容と、その本を構成するセルロースやインクの物理的世界との間には、もちろん、セルロースに付着したインクのパターンが、人をして意味内容を想起せしめる効果をもつ、という関係があるのですが、この二つの世界の間に論理的な橋渡しをすることは、非常に困難であり、そうすることに意味があるとも思えません。(ランダムドット3次元画像を描く、などの場合には、こういったこともある程度、考えてはいるのでしょうが)

これと同様の関係が、人の心の世界と、神経細胞の物理的世界との間にもあります。この関係は、神経痛の治療や精神的疾患の原因究明などに際しては大いに研究されてしかるべきではあるのですが、われわれが世界観を形成する上で、この二つの世界の間に論理的な関係を打ち立てなければならない理由はありません。

簡単な話、私たちが何かを考えるとき、それを物理的に実行しているニューロンの動きについて心を配る必要はないし、これらの間に何の論理的結合もない、ということです。たしかに、ニューロンの活動が人の精神活動を担っていることを私たちは理解しているのですが、そんなことは、私たちの考えている内容と、何の関係もない話だ、というわけです。

さて、この本は、心身二元論を解決すべく提案されたさまざまな考えを紹介し、著者も考察を加えるのですが、最後まで正解にたどり着けません。これは、私が「不正解!!」というのではなく、著者自身が結論を出してはおらずく、混乱のなかに読者を置き去りにした形となっております。論より証拠、同書の最後の部分を引用しておきましょう。

とにかく、心身問題をめぐる議論を続けるうちにだんだん明らかになってくるのは、性質二元論や非法則的一元論、非還元的物理主義のような、今のところ人気のある穏健な立場は、強固な物理主義に簡単に耐えうるものではないということである。真摯な物理主義者であると同時に非物理的な事物や現象にお付き合いできると思うのは無意味な夢であると私は思う。還元的物理主義は心的なものを救いはするが、物理的なものの一部として救うのである。これらの講義で私が論じてきたことがほぼ正しいとすれば、それこそわれわれが物理主義に期待すべきことである。そしてそれこそがわれわれがはじめから予測すべきことなのである。物理主義は安上がりに手に入るものではないのだ。

けれども、全面的な二元論のほうが心的なものを救うためのもっと実在論的な機会を提供すると結論するのは時期尚早だろう。われわれの多くにとって二元論は未知の領域であり、どのような可能性や危険がこの暗い洞窟に潜んでいるのかほとんどわからないのだから。

おいおい、といった終わりかたでしょう。まあ、正直なのはよいのですが、、、