フッサールの「ブリタニカ草稿」を読む(その2)

昨日に引き続き、フッサールの「ブリタニカ草稿」を読んでいます。

昨日のこのブログに書きましたように、心理学なら、20世紀初頭のフッサールの時代ならさておき、脳科学の発達した今時なら、もう少し気の利いたアプローチもあるだろうが、との思いも強く、あまり期待しないで読んだことは事実です。そうは言っても、現在の思想界に大きな影響力を及ぼしているフッサールですから、きちんと押さえておく必要性は感じているのですね。

というわけで、内容にまいりましょう。まずは最初の部分、第1節です。

生命的な実在は、さしあたってその基層を見れば、物理的な実在である。そうしたものとしては、生命的実在は、物理的自然の完結した連関のうちに所属している。この場合、物理的自然とは、第一の卓越した意味での自然であり、純粋自然科学の普遍的主題としての自然である。この純粋自然科学とは、どこまでも一面的な見方を貫いて、実在のもつ物理的規定以外の諸規定すべてを無視する客観的な自然科学である。……これに対して、生命的な世界は、むしろその心的な特性に注目してこそ主題にされるべきだとすれば、さしあたり次のことが問われることになる。すなわち、純粋自然科学との平行関係において、純粋心理学といったものがどの程度まで可能なのか、ということである。

というわけで、ここに問題提起がなされ、現象学の本質が(他の領域を捨象した)「純粋心理学」にありそうだ、と読者に予感させるわけです。

次の第2節では、反省(省察)というアプローチが示され、「我々がこれらの主観的な諸体験を把握するのは、反省をつうじてである。こうしたものとしての主観的な諸体験は、右のこと[=それの中でもろもろのものが現出するということ]から「現象」とも呼ばれることになる。」と、現象学という名のいわれが示唆されます。

次に、意識は対象を持っていること、対象を「本質的(= 種類として、類型的に、型(クラス)にあてはめて)」とらえていること、他者にとっても妥当性を持つ、などの特質が述べられます。

第3節では、こうしたアプローチが学問になりえるか、という疑問が示され、エポケー(判断中止)を伴う現象学的還元、という手法に話が進みます。

純粋に現象学的な場に接近するために、特殊な方法が必要になるのである。この方法としての「現象学的還元」という方法は、それゆえ、純粋心理学の根本的方法であり、純粋心理学に特有な理論的諸方法すべての前提である。すべての困難は、最終的には、心理学者の自己経験が既に総じて外的経験――すなわち心的でない実在的なものの経験――と絡み合っているその<絡み合い方>にかかっている。経験される「外的なもの」は、志向的な内在に属していないが、しかしながらその経験そのものは、外的なものについての経験として、志向的な内在に属しているのである。同じことは、世界的なものに向かっているその他の意識それぞれについても言える。したがって、現象学者は、おのれの意識をそれぞれに純粋現象として獲得したいと思うならば、しかしまた、それをおのれの純粋な生のひとまとまりの全体としても獲得したいと思うならばエポケーを最後まで一貫して成し遂げねばならない。
……
したがって、(純粋な「現象」への、あるいは純粋に心的なものへの)現象学的還元という方法は、(1)個々の現象に即しながら、かつまた総じて心的なものに含まれている成分全体に即しながら、心的領野のなかで登場する客観的措定すべてに関して厳密に最後まで一貫して方法的なエポケーを行うということにおいて成り立ち、(2)多様な「諸現出」を<対象的な統一体の諸現出>として方法的に把握し記述し、しかも、この統一体を、<そのつど諸現出のなかでそれに付着する意味成分をもった統一体>として方法的に把握し記述するということにおいて成り立つ。

この部分がまた、えらくわかりにくい部分なのですが、まず第一にフッサールがしようとしていることは、「科学者の心とは独立した自然科学」に対応するものとして、「自然現象とは独立した心理学」を打ち立てんとしている、という点を思い出す必要があります。

つまり、「外的なもの」なり、「客観的措定」は、これ自体は自然現象ですから、心理学とは区別しなくてはならず、括弧に入れる、判断を中止しておく、わかりやすくいえば棚上げしておく、一方で、これらに関する経験は、心的なものですから、これについては考えなくてはいけない、というわけです。

なんでこんなことをしなくてはいけないのか理解に苦しみます。単に、自然科学に張り合おうという、一種の美学のなせる業でなければ良いのですが、、、

ま、先に進みましょう。第4節では、「形相学」に話が発展します。これは、第2節で述べた、対象を「本質的(= 種類として、類型的に、型(クラス)にあてはめて)」とらえることを一歩進め、本質(形相)の上でこそ思考が可能になるといいます。確かに、学問的思考は、個々の事物について語ってもいたし方ありません。一般的な事実に対する考察こそが学問といえるのですね。

次に第5節では、「精密な経験的心理学を構築するために無条件に必要な基礎は、現象学的に純粋な心理学なのである」と述べた後、これを体系的に構築するために必要な研究課題として、志向性の個別的、総合的研究、意識のあり方の研究、自我に関する研究などを上げています。しかし、ここに述べられたことだけでは、なんともいえない、というのが実情です。

第6節から第2章「現象学的心理学と超越論的現象学」に入ります。超越論というのは、それが何か、というのではなく、なぜそれが可能か、をいう論であると、まずここでは簡単に理解しておきます。

この節で、フッサールの言うデカルトの思想<すべての実在的なものは、そしてつまるところ世界全体は、ただわれわれ自身の表象の<表象内容>として、われわれ自身の認識生の<判断において思念された世界>として、また最良の場合にはわれわれ自身の認識的生の<明証的に確証された世界>として、われわれにとって存在している世界にすぎず、またわれわれにとってそのように存在している世界に過ぎない>というのは、少々誤解ではなかろうか、という気がいたします。これではデカルトは唯心論の祖、ということになってしまいますが、これは事実とは異なると、私には思われます。

第7節では、主観と客観の対立が語られます。フッサールの言葉では次のようになります。

自然的態度においては、世界はわれわれにとって、自明なものとして存在している<実在性の宇宙>であり、問われることなく眼前に存在しているものとしていつもあらかじめ与えられている。……しかし、理論的関心がこの自然的態度を放棄し、普遍的なまなざしの向け換えによって意識生のほうに向かうや否や、われわれは新たな認識位置に立つことになる。というのも、この意識生の中でこそ世界はわれわれにとってまさに「この唯一の」世界("die" Welt)であり、われわれにとって眼前に存在している世界であるからである。

この問題は第8節で更に深められ、第9節で回答が与えられます。つまり、上で言う<実在性の宇宙>なる「外的なもの」は、心理学の対象とすべきではない自然現象であって、エポケー(棚上げ)しなければならず、そうした外的なものの経験、すなわち意識された宇宙について考えれば宜しい、ということになって矛盾は解消されるわけです。ふむ、だから純粋心理学が必要であるわけですね。

第10節ではこれらをまとめ、第11節から始まる第3章「超越論的現象学と絶対的に基礎づけられた普遍的学問」へと入って行きます。

第11節では超越論的現象学の目的が「普遍的存在論」であると提示されます。第12節第13節第14節第15節では、これがあって初めて諸学問が意味を持つことを指摘します。このあたりが、昨日書きました、宣伝的印象を与える部分です。

第16節は結論でして、客観と主観の調和がなったことで自然主義的世界観もまた正当である、と結論いたします。これでブリタニカ草稿は終わってしまうのですが、欲を言えば、相互主観性に言及し、その上に客観が構築される旨を書いていただければ良かったのではないかと思います。なにぶん、私は、現象学的還元よりも、相互主観性とその上に客観が構築されるのだ、という点でフッサールを評価しますので。

さて、だいぶ長くなってしまいましたが、果たして楽天ブログの文字数の制約は大丈夫でしょうか? 大丈夫のようなら、あとで少々追記いたしますが、、、


さて、あと2,000字少々書く余地があるようですので、この本に関する私の考えを書いておくことにいたしましょう。

まず第一に、純粋心理学とこれに基づく現象学的還元ですが、心を捨象して自然界のみを扱う自然科学に対して、自然界を捨象して心のみを扱う純粋心理学を定義したのは、対称的な、美しい論理ではあります。

しかし、自然科学が心を捨象したのは、普遍の学を目指す、という理由があるからでして、心理学なり哲学なりも、普遍の学を目指すなら、心、とまでは言いませんけど、研究者の個人的な心情は捨象されなければなりません。つまり、この部分での対象性は本来的に乱れているのですね。

そうは言っても、客観世界は主観の中にある、という点は慧眼です。しかしこれは現象学的還元に拠らなくても導き出せる結論のように思います。つまり、ひとたび人が客観という言葉を口にする以上、それが人の内部にあることは疑いもなく、客観は主観の中にある、という結論は簡単に導き出せるはずです。

つぎに、フッサールの思想ではっきりしないことは、人の主観の外にある物理的世界をいかに捉えるか、という点で、少なくともブリタニカ草稿の範囲では、客観と同一視されているように思われます。しかしこれ自体は主観の中にあろうはずもなく、別の取り扱いが必要でしょう。

ブリタニカ草稿には書かれていないのですが、主観の中に客観を定位した後、相互主観性(間主観性)の上に客観を再定義したのもフッサールの慧眼です。

と、いうわけで、フッサールの現象学に関する私の考えは、現象学的還元は捨象する、主観の中に客観があり、相互主観性の上に再定義されるという点は継承したい、というものです。

主観にせよ、客観にせよ、これらは概念を用いて語られるのですが、概念を扱いえるのは精神的主体だけです。したがって、主観に先立つ客観は、もしありえても、神の主観としてのみ存在しえます。

しかし、人は神の主観には永遠に至りえませんので、この概念は人にとっては無に等しきもの。それよりは、社会の主観としての客観のほうを、私はとりたいと思います。