クオリアは怪しげ? 「意識とは何か」を読む

本日は、意識とはなにか ―〈私〉を生成する脳をご紹介いたしましょう。この本、ダウンロードもできるのですね。私は印刷された本を読んだのですが、世の中、徐々に変化している様子です。

本書は、「クオリア」の概念を中心に、人の意識、主観について議論しております。クオリアに関しましては、同書の著者茂木健一郎氏の頁から、クオリア・マニフェストを読んでいただくのが手っ取り早いでしょう。まあ、最後の方のアジテーションは、少々興醒めですが、その前までは、十分な読み応えのある文章です。この頁、無料で読めるのもうれしい話ですね。

「クオリア」とは、日本語に訳せば「質感」ですが、質感という言葉から受ける印象以上に、もう少し、生き生きとした、今まさに感のある質感という意味で、林檎を前にした人が目の前の林檎の色から受ける、統合された感覚、といった意味合いとご理解ください。


さて、本の方に話を戻しましょう。

第1章では、クオリアに関して解説し、人の心が脳の恐ろしく複雑な物理現象であることを認める一方で、全ては主観の中で、クオリアとして感じられているということを述べております。この点は、現象学の主張を踏襲するものです。

第2章では、「やさしい問題」と「難しい問題」の二つがあることが明示されます。これも、フッサール以来の、哲学的問題と生活世界の関連と同様の問題提起です。

第3章は同一性に関する議論でして、この部分は普遍概念(一般概念)と単独概念(個体概念)の議論と重なっております。しかし、一般概念へのあてはめが計算機処理ではうまくいかない、という趣旨の記述(p73)には、少々疑問を感じます。

人は事物を前にしたとき、これを自らが記憶している一般概念にあてはめて意識しております。このような情報処理はパターン認識の問題であり、今日の計算機でも十分に可能であり、実用化もされているのですね。

そもそも同一性を機械的に判定できないのでしたら、最近はやりの、生体認識、すなわち指紋や静脈パターンで正当な人であるかどうかを判定する技術は成り立たないはずなのですが、もちろんこんなことはありません。機械で人物の同一性を判断することは現実に可能であり、これを行う実用装置も作られております。

この本の著者であります茂木氏は、ソニーコンピュータサイエンス研究所におられる方で、このあたりの事情には詳しいはずなのですが、本書を読む限り、情報技術でできることに対して、きわめて限定的な記述が目立つように感じられます。また、逃げを打つような記述も散見されるのですが、この部分は少々怪しく感じられます。

第4章は、「やさしい問題」と「難しい問題」に立ち返り、コンピュータであたかも人間のように反応する装置を作ったところで、それは「難しい問題」には踏み込めなのではないか、と主張します。

第5章は「『ふり』をする能力」と題しまして、人は相手の心が読め、相手によって態度を変える、という能力が示されます。また、第6章は「コミュニケーションから生まれるもの」と題しまして、人の社会的側面について議論がなされます。

第7章は「〈私〉の生成とクオリアの生成」と題しまして、対象物としての脳と、その中で意識が生まれることの不思議さにふれています。また、「外界からの刺激は、脳の中の自発的なクオリア生成のプロセスを条件づけ、導く役割を担っている」というわけで、この働きは脳の働きによるものであることを述べる一方で、コンピュータは定められた動作しかできない、という点で脳の働きと大きく異なっていると述べます。

第8章は「意識はどのように生まれるか」と題して、「物理主義や計算主義によって説明されるような脳の神経細胞の客観的なふるまいをとおして実現される」機能を考えるだけでは不十分であり、「クオリアに満ちた私の心という、主観的な体験の質」も問わなくてはいけないと主張します。

最後の第9章は、「生成としての個を生きる」と題しまして、人は主体的に生きているという点を強調し、次のように同書を締めくくります。

私たちは、脳の神経細胞の活動によって支えられた生成として、世界を把握し、自分を把握し、この世界に存在している。

私たちは、生成としての個を生きているのである。


さて、先に私の立場を明らかにいたしますと、この手の新語を持ち出しての理論展開という方法論に、私は少々懐疑的です。フッサールの「純粋心理学」もそうなのですが、「これさえあればなんでも解決」といったセールストークは、テレビお茶の間ショッピングの中だけにしておいてもらいたい、と思うのですね。

ひとたび疑惑の目で見ますと、クオリア・マニフェストなども、なんとなく怪しげな感じがしないでもありません。

もちろん、クオリアという考え方自体はさほど突飛な概念でもなく、生気論の流れを汲みつつ、自然科学との調和を目指す試みであるように思われます。人が人間機械論の味気なさに反感を覚えるのはごく自然な感情であって、より生き生きとした人の感覚に近い要素を自然科学の世界に持ち込みたいというのも当然の欲求でしょう。しかし、研究者の願いで結論が左右されるなんてことはあってはならず、思いの丈を語られれば語られるだけ、その結論が怪しげに感じられることもまた事実なのですね。

クオリアの怪しげな部分は、端的に言えば、クオリアは、人のニューラルネットワーク上で生じている物理現象であるとする一方で、意識は脳の神経細胞の客観的なふるまいをとおして実現される機能を考えるだけでは不十分である、としている点です。

何しろ、それが物理現象であるならば、それは客観的なふるまいとして把握できるはずですからね。

もちろん、これまでの人工知能研究が、人の脳に比べて、きわめて貧弱なハードウエアを用いて行われており、そこで扱える思考のレベルは単純なことに限られる、という問題があります。「やさしい問題」しか扱えない、というわけですね。

しかしこれは、技術的な問題点であり、原理的な問題ではありません。最近では、マルチコアCPUも使用されるようになりましたし、FPGAという並列論理回路を自在に構成する技術も進歩しています。もちろん、現段階で人の脳と同等の機能をもつハードウエアを構築することは経済的に困難でしょうが、半導体技術が現在のようなスピードで進歩していきますと、おそらく20年後には人の脳に相当する機能を持つハードウエアも経済的に使用可能になるものと思われます。

そこまで考えますと、本書にいうクオリアも、実は、大規模信号処理装置の特定の信号線の信号パターンであり、物理的な存在であるものとみなされるものと思われます。

人の主観というものは、物理的存在と同一の地平にあるものではなく、物理的な存在に還元される一方で、そうした還元を含め一切を把握する主体であるという、二面的な世界観を構築する必要があるのではないかと、私は、思います。

少なくとも、主観の範疇に属する「クオリア」を、物理的存在と一緒にして、自然科学の対象とすることは、デカルト以来の心身二元論と同様、これらの間の相互作用をどのように考えるべきか、という難問に導かれる結果となるでしょう。


主観と物理的世界は、異なる次元で扱わざるを得ないのではないか、と私は考えております。この関係につきましては、いずれきちんとした形でご報告したいと思いますが、心身問題に関係する部分につきましては、その論理の概要を以下に記しておきます。

(1)主観が存在すること。

(2)主観の外部に、物理的世界が存在し、その上に主観は概念を見出していること。

(3)自らと似た主観をもつ他者の存在を認識していること。

(4)他者の主観にも受け入れられる概念としての客観を、自らの主観のうちに構築していること。

(5)その客観のひとつに、自然科学という分析的、還元主義的自然理解の体系があること。

(6)自然科学の体系の中に、自らの身体も位置付けられていること。

これらを受け入れることは不自然なこととも思われず、さしあたり、クオリアなどという特殊な概念を持ち出さずとも、心身問題は解決されるのではないでしょうか。

また、(5)および(6)を受け入れたところで、自然理解の体系には自然科学のほかに、心理的理解の道もあります。そして、日常の場で、人の個々の感覚、行動を説明するには、自然科学的アプローチは無力であり、むしろ心理的アプローチが有効です。実際問題、他人が何を考えているかを知ろうと思えば、ニューロンの働きを分析するなどというアプローチはまずいたしません。そんなことよりも、その人の言葉や態度から心情を推し量るのが普通のやり方というものです。

このような事情に鑑みれば、人間機械論が有効であるのは、自然科学の研究や病気治療の現場などの特殊な局面に限定され、日常の生活世界では、依然として、生き生きとした心の動きを語ることが正当である、といえるのではないでしょうか。

と、いうわけで、人の感覚と自然科学の不一致を解消するための道は、自然科学の世界に新たな要素を追加することではなく、世界を記述するには、いくつもの方法があり、それぞれの局面で最適な記述方法を採用すればよいだけの話であると、私は、考えております。