「量子力学入門」を読む (「人間原理」、ですかぁ)

少し前に、虚数時間の物理学は量子力学にも福音となるのではないか、などと書きましたが、私、実は量子力学について、あまり良く理解していないのですね。

で、これでは少々困る、ということで、素人にもわかりやすそうな、岩波新書版の量子力学入門を読んでみました。

人間原理

ふうむ、この本、たしかに数式がほとんど出てこないのは良いのですが、これはこれで、当初期待した目的には、あまり役に立ちそうにもありません。まあ、そもそも縦書きの本に、量子力学に虚数時間はどのように役立つのだろうか、などというヒントを期待する方が間違い、ともいえるでしょう。

とはいえ、別の意味で、なかなか面白い本です。といいますのは、この本のテーマは「観測問題」。量子力学には、「観測されるまで状態は未定である」というコペンハーゲン解釈が、どうやら正しそうだと思われているのですね。

で、その極端な説が「人間原理」。これ、どこかで聞いたことがありますね。そうです、涼宮ハルヒの憂鬱(DVD Vol. 3)で、タクシーの中で自称超能力者が語っていたアレです。「量子力学入門」から、この部分を引用しますと、次のようになります。

実験室実験の方は1996年頃アメリカとドイツで実行され、ホィーラーの予想通りの結果が出た。そこで彼は強調する。「“記録”されるまでは、“現象”はない」と。“現象”を「粒子」と「波動」に局限するかぎり、おそらく彼は正しいだろう。だた、「現象」という言葉を最大限に拡張解釈し、何段階か飛躍してこの言明を言い換えればどうなるか? あるいは、「宇宙は人間の登場と人間による認知を待っていた」という断定すら生まれるかもしれない。なぜならば、宇宙という「現象」は人間が観測して《記録》するまでは存在しないのだから! …… これは人間原理の極端な姿だ。読者の皆さんはどのように受け取られるだろうか?

さて、このホィーラーの提唱した実験といいますのは、光を二つの経路に分けて、離れたところで二通りの観測をいたします。一つは、光の粒子性が観測される方法でして、二つの検出器でそれぞれの経路の光を観測します。この場合、光はどちらか一方経路を通って伝達され、いずれか一方の検出器に入ります。もう一つの観測は、光の波動性を観測する干渉計測で、この場合は双方の経路を通った光の干渉が観測されます。

さて問題は、光はどちらか一方の経路を通るのか、それとも双方の経路を通るのか、ということでして、それが決定するのはどのような計測を行ったかによります。で、二つの経路に分けられた光というのが、地球からはるか離れた天体の光が巨大な星の重力で分けられたものであった場合どうなるか、という問いです。

何しろ、光が分けられたのは大昔の話でして、観測装置は光が分けられた後で設置されるのですから、光が分けられた時点で観測装置がどうなっていたか知る由もなく、個々の光子は波動として双方の経路を通ればよいのか、粒子として一方の経路を通ればよいのか、判断に苦しむことになるのですね。

客観と外界との混同

似たような問題を扱うものとして、シュレディンガーの猫、という有名な思考実験があります。量子力学的現象は観測されてはじめて定まるものですから、放射性同位元素から出る放射線をガイガーカウンタで検出して毒ガスを放出する仕掛けを設けた箱に猫を入れた場合、猫は生きているのか、死んでいるのか、という問題です。

これに対する回答(コペンハーゲン解釈)は、猫の生死は観測した時点で確定し、観測されるまでは生死重ね合わせの状態にある、というのですね。

更に、猫を研究者の友人が観測したが、まだ連絡をよこさない場合はどうなっているのか、など、この問題の発展は止まるところを知りません。

さて、この問題、これまでに述べてまいりました私の客観解釈ではどうなるか、という点について述べておきましょう。

まず、物理学者は「客観」を「外界」と同義に扱う、という問題があります。同書の最初の部分でも、以下のような記述があります。

「午後6時に渋谷駅のハチ公銅像前で会いましょう」と約束するとき、渋谷駅やハチ公の銅像の客観的実在性を暗黙のうちに容認している。渋谷駅やハチ公の銅像という「物体」が、私たちの意識や行動とは関係なく、午後6時を含む十分長い時間客観的に存在していると信じていなければ、そんな約束はできない。通常、「物」または「物体」は客観的に存在するものとして語られる。

ここでいう「物体」は、私たちの意識の外部にある存在で、それが「客観的存在」であると考えられています。

ところが、私流の解釈によりますと、(というか、それが正しいと思うのですが、)「渋谷駅」にせよ「ハチ公の銅像」にせよ、これらは、外界の上に人間の精神が見出す概念的存在であり、私の精神が見出す概念と、他人の精神が見出す概念とが、一致していると信じているから、このような会話が成り立つと考えるべきです。

私たちの意識や行動とは関係なく存在するもの、というのは、たしかに私たちの外部に厳として存在していると、私自身も確信しておりますが、それら外界の実在は、人の精神を離れては名もなく区別もない存在であり、渾沌としか呼べない存在です。

客観とは

結局のところ、「客観」といいますのは、私たちの意識を離れた、私たちの外部の存在を意味するのではなく、主観も客観も、精神的働きの結果生じた概念であり、自我の中に生じた概念が主観であり、その他者と共有される(と自らが信じている)部分が客観である、というフッサール流の解釈に従うべきなのでしょう。

ちなみに、「主観」と「客観」という日本語表現はなかなか良くできたものでして、「主(あるじ)の観かた」が主観であり、「客(第三者)の観かた」が客観である、と解釈すれば、フッサールの解釈と重なります。

これを英語流の「サブジェクト(主観)」と「オブジェクト(客観)」という表現にいたしますと、ずいぶんとイメージが変わってしまいます。サブジェクトというのは服従するものでして、オブジェクトは抵抗するもの。まず、田中真紀子流の、「家族・使用人・敵」なる分類の、「使用人」が主観で、「敵」が客観に対応いたします。これは、自然を征服し意のままに操ることが人のあるべき道である、という西欧的合理主義の現れのように思えるのですね。

ここは、主(あるじ)と客人が、お茶でも飲みながら友好的に語り合う、東洋的な姿が宜しいのではないかと思います。ま、少なくとも、西欧の知性は、血のにじむような努力の果てに、その境地までたどり着いたのですが、この考え方が物理学者の常識になるまでは至っていない、といったところでしょう。

ふうむ、哲学(メタフィジックス)が自然科学(フィジックス)に貢献できることも、まだまだありそうですね。


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。