「真理は人の心のうちに宿っている」をめぐって

フッサールのデカルト的省察

先週のこのブログで「西洋哲学史(古代から中世へ)」をご紹介いたしました。

その中で、フッサールがアウグスティヌスの「真理は人間の内部に宿っている」との言葉を引用していることを、同書が批判的に述べていることに関して、私には腑に落ちない、ということを書きました。

これは少々気になりますので、フッサールのデカルト的省察を読み直してみました。(以下の引用は、世界の名著版から行っておりますが、今では岩波文庫版がお買い得です。)

まず、問題の個所を世界の名著版の「デカルト的省察」から引用しますと、次のようになります。

実証科学は、世界を喪失している学問である。普遍的な自己省察によって世界を再び獲得するためには、われわれはまず最初に、判断中止によって世界を放棄せねばならない。アウグスティヌスは次のように語っている。「外にゆこうとしないで、汝自身のうちに帰れ。真理は人の心のうちに宿っている」と。

そして、この一文で、フッサールは、その著「デカルト的省察」を締めくくっています。

西洋哲学史の著者、熊野氏は、この引用に対して、

フッサールの、この引用は、フッサール自身の立場について誤解を招く。フッサールの現象学が、意識の「内部」を問題としていたように響くからである

と述べているのですが、私が思いますには、上のフッサールの引用は的を射たものであり、「デカルト的省察」でフッサールがかなりの頁を費やして述べようとした、ほとんど全てがこの短い引用部に集約されているように思うのですね。

自然科学の基盤

まあ、そう申しましても、何のことやらちんぷんかんぷんでしょうから、順を追ってご説明いたします。

まず、実証科学は、世界を喪失している学問であるという部分ですが、デカルト的省察の最初の部分で、フッサールは次のように述べます。

少なくとも次の事実は考慮を要することである。それは、実証諸科学は、デカルトの省察から絶対的に合理的な基礎づけを得るべきであったにもかかわらず、その省察をこれまでほとんどかえりみなかった、という事実である。もっとも、それらの科学は、過去三世紀のあいだに輝かしい発展をとげたけれども、今日は、自らの基礎の不明瞭さのために、その発展が大いに阻害されていることを、それら自身感じている。しかも、それらの科学は、自らの基礎を新たに形成しようと努めるときでさえ、デカルトの省察に立ち帰ろうとはついぞ思わないのである。

フッサールの「デカルト的省察」は、1929年の講演を元に、1931年にフランス語版で出版された書物ですが、この時代はアインシュタインの相対性理論と、プランク等の量子力学で物理学会が大きく盛り上がっていた時代でして、それまで絶対的真理と思われていたニュートン力学が否定された時代にあたります。

この時代に、物理法則に対する考え方も大きく変化しました。ニュートンの時代には絶対的真理と考えられていた物理法則は、常に検証されることによって真理と認められている「仮説」へと、その性格を大きく変えたのですね。

フッサールは、このような変化を歓迎しつつも、それだけでは生ぬるいと考えていたようでして、彼の別の書物「厳密な学としての哲学」の中で、以下のように語っています。

あらゆる自然科学は、その出発点に関していえば、素朴である。自然科学が探求しようとする自然は、自然科学にとって単純にそこに存在している。事物が存在しているということ、すなわち無限の空間のうちに静止し、運動し、変化するものとして、また無限の時間のうちに時間的なものとして存在している、ということは自明のことなのである。われわれは事物を知覚し、素朴な経験的判断においてこれを記述する。自然科学の目標は、この自明の所与を、客観的に妥当する、厳密に学的な仕方で認識することにある。

この「素朴さ」は、今日自然科学の研究に携わる研究者にも受け継がれているのですが、先日議論しましたように、量子力学の観測問題において揺らいできます。

観測問題という難問

フッサールの時代には、観測問題はまだ大きな話題とはなっていなかった様子ですが、フッサールは、この素朴さは経験に基づくものであり、人の世界に向けられた意識の上に自然科学は構成されるのではないか、と指摘します。

自然科学は、元来、人の意識の介在を徹底的に排除し、客観的自然そのものを扱う学として発展してきました。フッサールは、人の意識の上に、あらゆる学はおかれるべきであると主張し、「客観」そのものを、他者と共有される主観、間主観性(相互主観性)の上に再定義しているのですね。

今日の量子力学は、観測問題から人の意識の介在を考慮せざるを得ず、「客観的自然を扱う学」という基本的立場も揺らいでいるのが実情です。現在の量子力学、なかんずく、コペンハーゲン解釈は、中途半端に「観測者」を導入してお茶を濁した形となっているのですが、そもそもの自然科学が自然界に対する記述であり、精神的働きの結果であることを考えますと、人の意識の上に自然科学全体を位置付けるというアプローチが王道でしょう。

もちろん、ここでいう人の意識、というものは個々人の勝手な意識であってはないことは当然で、普遍的な、他者の意識と共有できる、フッサール流の定義に従う「客観」に妥当するものでなければなりません。

つまりは、普遍的な自己省察によって世界を再び獲得する必要がある、とフッサールが述べておりますことは、まことに当を得ているように、私には思えるのですね。

判断中止

さて、最後の、判断中止によって世界を放棄せねばならない、なる部分につきましては、実は、フッサールのフッサールらしいところであるのですが、私には少々同意しかねる部分でもあります。

判断中止といいますのは、自然科学が人間精神の介在を排除したように、外的自然の介在を排除した自省(=純粋心理学=現象学的還元)によって世界を再構築することをフッサールは要求しております。このあたりのフッサールの考え方は、先日ご紹介いたしましたブリタニカ草稿に書かれております。

たしかにこういたしますと、他者と共有される主観の上に、「客観」が再構築されるのですが、外的自然の介在を排除しなければならない必然性が、私にはさっぱり理解できません。まあ、自然科学のアプローチと対称的な、美しいアプローチではあるのですが、そこま徹底した論理展開でなければならない必然性は乏しいように思われるのですね。

客観の再構築は、外的自然を排除せずとも可能ではなかろうか、と私は考えておりまして、そもそも、客観が言葉や数式で記述される以上、それは精神的機能の内部に存在せざるを得ません。精神的働きと独立な存在としての客観は、しいていうならこれは神の主観、ということになるのですが、人間に神の主観を知りえるはずもなく、所詮このような概念は人に取りまして、想像上の概念でしかありません。

それでは、客観とは何か、その上に自然科学が構築される客観とは、一体いかなるものか、という点が問題となるのですが、結局のところ、フッサール流の、他者と共有できる主観、とするしかないように思われます。

客観の再定義

先に述べましたように、客観も、何らかの精神的機能の上に構築される必要がありまして、この精神的機能が何かといえば、第一には個々人。つまり、人は、自らの主観のうちに、他者と共有できると信じている概念・知識を有しており、この部分が客観である、ということができます。

しかし、このような客観といいますのは、実は主観の一部でして、人は自らの外部に客観があると信じており、自らが持つ客観的知識は、その不完全なコピーであると認識しております。で、人の外部にある客観、というものも実はありえるのでして、それは、社会の主観なのではなかろうか、と私は考えております。

社会とは、精神的機能をもった人間というパーツを、コミュニケーションチャンネルで結び合わせた装置でして、個々人の精神的機能とは異なる、社会全体としての精神的機能をもっているのですね。まあ、パソコンをネットで接続して、超大型のコンピュータシステムを構築するようなものです。

おそらくは、この、社会の主観こそが、その内部の個人にとっての客観であり、その上に全ての学問は構築される、ということでしょう。

言葉と社会とのかかわり

さて、そこまで認めた上で、真理は人間の内部に宿っているなるアウグスティヌスの言葉を反芻しますと、なにやら奇異な感じを受けます。「真理は人間の内部に宿っている」ことが真理であるといたしましても、このアウグスティヌスの言葉は、それを受け止める人の外部にあるわけでして、それを真に受けて自らの内部に真理を追い求めるのも、何か矛盾する行為のように感じられます。

同様の奇異な印象は、デカルトの「我思う故に我あり」にも受けたものでして、そういうデカルトの言葉は、他の全てを疑っていては発することもできないはず。何しろラテン語はデカルトの発明ではないのですね。

結局のところ、人間は成長の過程で社会との関わりを持ち、社会と関わることではじめて己の精神的機能を作り上げた、ということでしょう。精神的機能を持つ人間というパーツが先に存在して、これを結び合わせて社会という精神的機能を持つ装置ができたのだ、というよりは、社会という精神的機能を持つ装置の中で人間は己の精神的機能を作り上げている、というのが実情なのでしょう。

そういう意味からは、デカルトのコギトにせよ、唯我論から出発するフッサールにせよ、説明の順序としてこのような形を選んでいるに過ぎず、発生学的議論と混同しないよう、気をつけなくてはならない、と思います。