ポアンカレ「科学の価値」にみる客観

三連休ともなりますと読書がはかどります。と、いうわけでご紹介いたします書物は、ポアンカレの「科学の価値」。

ポアンカレはフランスの高名な数学者で、科学評論家としても活躍された方です。で、その活躍した時期が、ニュートン力学の矛盾がいかんともしがたくなった時期で、特殊相対性理論が生まれる直前。20世紀がまさに始まろうとしていた時期なのですね。

20世紀初頭のパリ、といいますのは、日本で言えば鹿鳴館のころ。シルクハットの紳士を乗せた馬車が石畳を鳴らして通り過ぎゆく傍らのカフェで、エーテルと地球の相互作用について語り合う。なんともロマンあふれる光景ですね。あ、エーテルといいますのは、当時、宇宙空間に満ちて、光を伝える媒体と考えられていた物なのですね。アインシュタインによって、あっさりその存在を否定されてしまったのですが、、、

そんなおしゃれな時代の最先端を行くポアンカレの科学評論。語り口は穏やかで、今から読んでも、その内容は本質を突く慧眼であるといえましょう。

で、圧巻は、ニュートン力学の矛盾点を何とかしようという試みの数々なのですが、残念ながら、アインシュタインの学説が出る前、これぞ本命、といった解答には至らないのですね。

まあ、この本も、雰囲気で読む本、といえなくもありません。

で、客観、です。ポアンカレはこの本を閉じる直前に、以下のように述べます。

まず第一に、客観性という言葉はどういう意味に解すべきであるのか。

われわれの住んでいる世界の客観性を保証するものは、この世界を思考力をもった他のものたちと共有しているのだ、という事実である。他の人間達との連絡によって、われわれはでき上がった推論を彼らから受けとる。これらの推論がわれわれから出たものでないことをよく知ってはいるが、それと同時に、これはわれわれと同じく理性をもったものが行った推論であることを認めるのである。そして、それらの推論が、われわれの感覚の世界に応用できるように見えるので、われわれと同じ物を見たのだ、と結論することができるように思う。夢を見たのでないことがわかるのは、このようにしてなのである。
……
たとえば、外的なものは、そのために客観的なもの(英語で言えばオブジェクティブ、対象となる)という言葉が作られたのであるが、それはまさに客観的なもの(間の抜けた翻訳ですが)であって、見えたかと思うとたちまち逃げ去って捕らえることのできない外見なのではない。客観的な対象(英語で言えばオブジェクト、ですね)は、単に感覚の寄り集まったものであるばかりでなく、常住普遍な絆によって結び付けられた集まりなのである。外界の事物において客観的なものはこの絆であり、またこの絆のみなのである。そして、この絆こそは、すなわち、関連のことなのである。

少々長い引用になってしまいましたが、ここでポアンカレが主張している客観の要件は二つ。第一に他者との共有、第二に、事物そのものではなく関連である、といいます。

第一の要件は、フッサールによる客観と同じでして、他者と共有される主観としての客観、相互主観性(間主観性)の上に構築される客観、ということを述べています。

第二の、関連、というのは少々わかりにくいのですが、結局のところ、外界の事物そのものが客観であるのではなく、また、そこから受けた感覚が客観であるわけでもない。客観というのは、その外界の事物に関する概念、知識体系の中での位置付けである、ということでしょう。

どうも、このあたりを読みますと、客観の再定義をフッサールの功績とするのは、少々問題かも知れません。やはりフッサールの功績は、純粋心理学なり、現象学的還元による客観の再定義の厳密な論証であった、ということでしょうか。

確かにポアンカレの主張は、断定的記述があるのみで、そうでなければならない理由もなければ、もちろん論証もないのですね。まあ、私から見れば、当たり前のような気もしますし、当たり前だとポアンカレも思うから、特に理由を書く必然性を認めなかったのかもしれませんが、、、

ともあれ、客観ということに関して、多くの哲人が同じようなことを考えている、というのは、はなはだ心強いことではあるのでした。

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