「ポパーの科学論と社会論」を読む

客観に関する考察、続行です。今回は、ポパーの科学論と社会論の前半、科学論を読みました。

ポパーという方、「学説が正しいと信じられるのは、その反証可能性による」、というテーゼを立てられた方で、その対偶は、「反証できない学説など信じるに足りない」というわけです。つまりは、自然科学は知り得ることしか語ってはいけない、という私の制約と実質同じことを、はるか昔に主張された方なのですね。

つまりは、ポパーの主張によりましても、シュレディンガーのネコの実験において、観察する前のネコの状態に関してさまざまな主張があるのですが、なにぶん誰にもわからないとわかりきっていることに対して種々の説を唱えたところで、何の意味もない、ということがいえるのではないでしょうか。

更に、同書では次のように語ります。

ソクラテスは「汝自らを知れ。そして汝自身がいかに無知であるかを知れ」と教えた。われわれの無知や知識の限界や誤謬可能性などの自覚を本質とするこの教えは、ポパーの批判的合理主義の原型とも言えようが、これは後にクザーヌスやエラスムス、モンテーニュ、J.S.ミルやラッセルなどに受け継がれて、寛容思想の原理となり、信教・思想・信条の自由を説く運動の理論的基礎となったのである。だが、真なる知識の源泉を信ずる認識論の態度は、これとはまったく裏腹の権威主義的なものであって、、、

この言葉を援用いたしますと、わが国の多くの物理学者が神の視座を得たかのごとき客観主義的立場をとりがちであるという事実は、現在の日本の学術社会における権威主義的傾向の表れなのかも知れません。これは少々困ったことですね。

さて、ポパーのいう反証可能性は、その学説が否定される可能性のある実験を行う、ということでして、その学説を支持する例をいくら集めても駄目、ということです。特に賞賛されるのは、一般相対性理論の行った数々の予言でして、光が曲がることや水星の近日点の変化など、従来のニュートン力学では説明が付かないことがらについて、相対性理論でその量的予想を行い、実測でそれが正しいことを証明したという点です。

さて、客観に関するポパーの説ですが、これは、わが意を得たり、という部分と、これはどうも、という部分が混在しております。同書によりますと、次のようになります。

ポパーは存在するものを三つの存在論的世界に分類する。第一は、客観的物質的事物の世界(彼はこれを世界1あるいは第一世界と呼ぶ)。第二は、個人の主観的な意識や行動性向の世界(世界2あるいは第二世界)。認識主観によって正しいと信じられているだけであるような、主観的な知識や信念はこの世界に属する。第三は、言語、科学、法律、道徳、哲学、宗教、芸術、生活様式、慣習、様々な制度など、要するに様々な文化体系の世界(世界3あるいは第三世界)。これは人間によって生み出されたものでありながら、人間の精神や意識(世界2)の単なる現れにすぎないようなものではなく、後に述べるように、それに対する大幅な超越性と自律性を持っていることによって独自の存在論的身分を要求できるものの世界である。

ここで、客観が主観の前に存在することが少々妙なのですが、あるいは、ポパーによりますと、主観とは、客観的事物である人体の内部で生じる現象、と考えたのでしょうか。

これを私の世界認識に変換いたしますと、第一に主観があり、第二に外界がある。そして主観は外界に他者や自分自身を見出しており、主観の中で他者と共有できると信じる部分として客観を持っております。

この客観は、主観の一部なのですが、同時に、自らの外部にあると信じられている社会的に正しいとされる考え方、すなわち、外部の客観の不完全なコピーであるということを自覚しているのですね。

まあ、早い話が、私の精神的働きの中に、物理法則に対する理解があるのですが、実は、私の外部に、もっとしっかりした物理学の体系というものがあって、実は私の知っていることはその一部に過ぎない、ということを自らが認識している、というわけです。

で、この外部の客観は、ポパーの第3世界と同一でして、要は社会の文化・常識であり、社会の精神的機能における、「主観」とも呼ぶべき存在であるわけです。こういったものが存在しうるのは、社会に精神的機能を有する仕組みがあるからでして、同書でも、雑誌や書物の出版や学会の存在が第3世界の基礎となっている旨を述べております。

で、私の社会の主観論を展開いたしますと、小さな社会から、大は全人類という社会があるという社会の重層性に対応して、個々の部分社会は内部には客観として機能する主観を持って、外側の大きな社会と関わっている、とみなすことができるのではないか、と思うのですね。

そうなりますと、個人と社会との関係において、人類が長い歴史の中で獲得したルール、つまり、思想信教の自由や人権の尊重などの考え方は、社会相互間でも認められるべきであり、大きな社会はその部分社会の自由や尊厳を認めなければならない、ということも言えるのではないでしょうか。

まあ、このあたりの社会学は、今後の課題、かも知れませんね。いずれにせよ、ポパー、なかなか良いことを言われます。いずれきちんと読む必要がありそうですね。