「文化とは何か」を読む

さて、本日は休日、というわけで、多少の時間の余裕ができました。溜まっている本を片付けてしまいましょう。

まず、取り出だしましたる書物は、テリー・イーグルトン著「文化とは何か」です。

この本、一月ほど前の朝日新聞書評欄に紹介されていたのですが、松柏社という弱小出版社が版元の哀しさゆえ、地方の弱小書店には置いてありません。しかしさすがは神保町の三省堂、なんとこの得難い書物が平積みで売られているのですね。

まず、全体を通しての印象は、マルクス主義的ポストモダンの思想に貫かれた書物、というわけでして、先日ご紹介いたしました「現象学」の著者、リオタール氏と同じ軌跡を、同書の著者も辿っているように見えます。

なるほど、ポストモダン、そういうわけだったのか、などと一人で納得いたしますこの筋道、ソヴィエト連邦の崩壊で依るべき支柱を失ったマルクス主義者の前に現れたのがポストモダンだった、というわけですね。

まあ、ポストモダンは、マイノリティを尊重する反帝国主義の色彩の濃い思想ですから、マルクス主義者が走る先として、悪くはありません。しかし、啓蒙主義の塊でありますマルクス主義から、反啓蒙のポストモダン思想に転向するには、相当の自己変革が必要。

その点、リオタールには、現象学という確固とした基礎がありますので、その主張は明確。彼の著、「ポストモダンの条件」は、マルクス主義からポストモダンへの転向宣言、とも読めなくはないのですね。

閑話休題。「文化とは何か」は、文化をめぐる混乱した状況を紹介していきます。しかし、「文化」という用語に、実にたくさんの意味があるために、この議論自体もなかなか見通しの悪い議論となってしまいます。

私個人といたしましては、「文化」の定義を「常識」と同義に捉え、「人類社会がもつ精神的機能における、その思考様式」といたしたいところです。同書の最終章に、たぐいまれな常識人、T.S.エリオットによる文化の定義「誕生から墓場まで、朝から夜まで、眠っているときも含む、民の生活様式の総体」なる言葉が引用されていますが、まずこれに近い定義といえるでしょう。

一方で、芸術作品を文化の象徴とする考え方もありまして、これによれば、例えばギリシャ時代に、貴族の文化と庶民の文化(パンとサーカスのサーカス、ですね)の二項対立をみることができるのですが、こんな分類に意味があるとも思えず、ギリシャの文化は、その総体としてみるしかないように思います。

ポストモダンを標榜しつつも、同書の著者はマルクス主義の思想から抜けきっていないように思われます。マルクス主義は、一党独裁を標榜し、党中央がすべてをコントロールすることを目指しました。もちろん文化もその一つで、マルクス主義文化を追い求めたのですね。しかし私に言わせれば、これは本末転倒で、人類文化の一部としてマルクス主義もあった、というべきでしょう。

結局のところ、社会の精神的機能を実現しているシステムは、極めて複雑であり、少数の人がこれをコントロールすることは不可能でしょう。人々に出来ることは、そこに、情報を投げ入れること。また、そこから情報を取り出すこと、などの限定的な活動なのですね。

個々の文化の果実、芸術作品などなどは、言うならば自然発生的に生じてくるもの。過去の遺産を尊重すべきことはいうまでもないのですが、ときにカウンターカルチャーなどとも称される、近年に生じた芸術作品もまた、尊重して鑑賞することも大事ではないか、と思う次第です。

話がいろいろと飛んでしまいましたが、同書の結論は、以下の通りです。どうやら、堅物のマルクス主義者も、そろそろ文化を、その自発性、自律性に任せるべき、との考えに至った様子であることは、まず、結構な話ではないか、と思います。

文化はまた、わたしたちがそれを生き甲斐とするものだ。愛情、人間関係、記憶、親族、場所、共同体、情動的充足感、知的快感、究極の意味感覚。こうしたものは、わたしたちのほとんどにとって、人権憲章よりも貿易協定よりも身近なものである。……わたしたちは、文化がいかにして新たな政治的重要性を帯びるようになったのかをみてきた。しかし、文化はまた同時に傲慢になり節度を失いすぎた。文化の重要性を認知しつつも、そろそろ文化をそれ本来の場所に戻すときがきたようだ。