スポンヴィルの「資本主義に徳はあるか」を読む

企業倫理をめぐる議論が姦しい昨今、本ブログでも企業のあるべき姿には関心を払っております。そこで、本日は、「資本主義に徳はあるか」をご紹介いたしましょう。

5層の秩序

まず、同書の結論から申しますと、「資本主義と徳とは関係ない」というもの。以下、その理由について、簡単にまとめておきましょう。

同書は、5層の秩序、というものを提唱いたします。最下層にありますのが、「科学・技術・経済」の秩序でして、この秩序は、できることとできないこと、という対立を軸として語られます。次の第2層が「政治と法律」の秩序でして、合法か違法か、が対立軸になります。

次の第3層が「道徳」の秩序で、すべきこと・すべきでないことが軸を定め、その次の第4層は「愛と倫理」の秩序、更にその上にあるかもしれない第5層が「信仰」の秩序、ということになります。

著者のスポンヴィル氏は信仰とは無縁の人で、第5層はさしあたり無視して同書を書いております。また、道徳と倫理の秩序の間は、少々差異が薄く、第3層と第4層は「倫理・道徳」の秩序にまとめてしまっても良さそうな感じがいたします。

それぞれの秩序の内部では、秩序特有の論理が語られます。科学・技術・経済の層の内部では、科学的な議論がなされ、さまざまな可能性が技術的に可能であるのか不可能なのかが議論されます。法の秩序、道徳の秩序の内部でも同様に、その秩序固有の議論がなされます。

一方、科学技術の成果の応用ががどこまで許されるのか、という問題に対しては科学技術の枠内では制限を与えることができません。遺伝子組み換えや不妊治療などの技術的な可能性は、その秩序の内部で議論できるのですが、社会的にどこまでが許されるのか、という点に関しては、政治的、法律的な制約の問題となります。

また、民主主義の元では、一定の手続きを踏めば、どのような法律でも制定可能なのですが、これに枠をはめるのは、主権者の道徳観ということになります。

で、第1層、「科学・技術・経済」の秩序に属する資本主義と、第3層であります「道徳」とは、最初から同列には論じることができない問題、関係のない話である、というわけですね。

滑稽さと圧制

同書の面白い点は、これらの秩序の混同を「滑稽さと圧制、純粋主義と野蛮」という言葉で戒めます。

統治者が愛されたいと考えるのは滑稽であり、技術や経済が法や政治に干渉することは滑稽な話ということになりますし、愛社精神や愛国心を強制することも滑稽、ということになります。

一方、科学技術の真理を政治的に決めようとするのが圧制であり、徳の押し付けが圧制です。面白そうなところを、ちょっと引用しておきましょう。

ひとが最悪の事態をみずからに許してしまうのは、ほとんどのばあい善の名のもとにおいてのことなのです。これが十字軍症候群であり、そこから私たちの知るかぎりのすべての災厄が生まれました。これはこんにちまでつづいています。ブッシュとビン・ラディンがあれほどまでに自身が第三の秩序において善を、あるいは第五の秩序において神そのものを代表しているなどと確信したりしなかったら、彼らの政策にたいしてこれほど恐れを感じる必要はなかったでしょう。また、レーニンあるいはトロツキーが本当は共産主義を信じていなかったら、あれほど無定見に、またおそらく大量に銃殺することもなかったでしょう。

おみそれいたしました。ブッシュ、ビン・ラディン、レーニン、トロツキーが同列に扱われています。まあ、ヨーロッパの知性から見ますと、ブッシュもビン・ラディンも、現在の世界に災いをもたらす存在であることに変わりはない、というわけですね。

資本主義は道徳的制度か

さて、以上が同書の内容のご紹介なのですが、資本主義と徳とは無縁である、という同書の主張を受け入れるべきか否かにつきましては、色々と議論のあるところでしょう。

確かに、道徳とは自然人の心の内なる存在でして、経済制度そのものに徳を求めることは無理があります。企業が道徳的であるのかどうか、という問題は、経営に携わる人それぞれが道徳的であるのかどうか、という問題に還元されるでしょう。そういう意味で、道徳は資本主義や市場経済といった制度とは無縁の存在である、という同書の主張は理解できます。

しかし、資本主義、市場経済といった制度が、これに携わる人々を道徳に反する方向に導きやすい傾向があるとすれば、制度は道徳とは無縁である、ということにもなりません。人々を非倫理的行為に追いやる制度は、それ自体が非倫理的である、といえると思うのですね。

企業は株主のものであり、資本主義は金が金を生む制度である、なんてことを同書はしらっと書きます。もちろんこれは事実であるのですが、ここに激しい競争があった場合にどうなるか、と考えますと、企業のディシジョンメーキングに際しては社員個人の道徳観は抑圧され、企業は法律すれすれの行為に走りがち、ということになります。

企業はなぜ非倫理的行為に走るのか

昨年来世間を騒がせておりましたライブドアにせよ、村上ファンドにせよ、スチールパートナーズにせよ、その他もろもろのファンド、保険会社、消費者金融、談合企業に悪質なシロアリ駆除やらリフォーム業者、などなど、非道徳的企業が跋扈する背景には、資本主義なり市場経済なりが独走し、法律をはじめとする社会的諸制度の整備が追いつかない、という現象があるのでしょう。

もちろん、こういうことが問題となっておりますこと自体は、社会の健全性を示すものであり、道徳が厳然として社会の指導的役割を果たしていることの傍証でもあります。しかし、そのことと資本主義制度が道徳的であるのかないのかは、それこそ無縁のことである、と思うのですね。

基本的に、市場経済の下、資本主義の構成単位であります企業は、利益を最大化することが求められます。そうすることが、企業経営者に課せられた責務であり、株主が経営者に期待することは、まさにリターン、であるわけです。

そうなりますと、経営者は道徳に反するか否か、という観点は捨てざるを得ません。もちろん、それが法律に反する行為であれば、結果的に、法律を犯すことで企業は損を被り、経営者の責任が追及されることになりますが、法に定めのない、単なる非倫理的行為であれば、それを犯したところで企業には何の損失もなく、逆にそれを犯すことで企業利益が最大化するのであれば、経営者は倫理などには構うべきではない、ということになります。

このような事情は、ある意味当然のことであって、企業の非倫理的行為が蔓延することを防止しようと思えば、法的制約を課して、違反企業の取締りを厳に行うしかありません。と、なりますと、やはり資本主義は非倫理的である、反道徳的制度である、ということになるのですが、さて、どうしたものでしょうか。

問題はあるが他よりはマシな資本主義

では、資本主義に代わる、道徳的な経済制度はあるのか、と問われましても、答えに窮する、ということはいえます。資本主義であろうとなかろうと、人がみずからの利益を追求するのは、古来より変っておりません。共産主義にしたところで、ソヴィエトの官僚たちがみずからの利益を追求した結果、あのような事態に陥ってしまったわけです。

結局のところ、資本主義、市場経済の利点は、その構成要素たる企業、個人がみずからの利益を追求したとしても、社会全体はうまく運営される、という制度であるわけですね。どんな制度を採用したところで、これに属する個人なり集団がみずからの利益を追求するなら、そしてそれを防ぐ手立てがないのなら、結果は同じこと。社会が破綻しないだけ、資本主義はマシな制度、ということになります。

企業を道徳的にするには

そうなりますと、先週のブログと同じような結論になってしまいます。金融技術を含む、科学技術の進歩にあわせた法律や社会制度の手当てを、きちんきちんとするしかない、というのが唯一の解ではないでしょうか。問題は、ここにきて技術の進歩がますます急速になったこと。政治家達にも、しっかりと働いてもらうしかありません。

企業が編み出すさまざまな手法の内、道徳律に反する行為を規制する法がきちんと整備されていれば、企業にとっては、利益最大化と道徳律に即した行動が一致することになります。そのような状況下では、資本主義はもはや反道徳的存在ではありえません。

資本主義を道徳的にするも反道徳的にするも、法律をはじめとする社会制度次第、というわけですね。そういう意味では、資本主義と道徳は無関係の存在です。道徳に即して社会が運営されるよう、さまざまな社会制度を整備することは、経済の問題ではなく、政治的な課題である、というわけです。

法人をめぐる問題

同書の面白い点は、最後の部分に、聴講者とのディスカッションが付いている点でして、一つ注目に値いたしますのが「企業は法人である」との聴衆からの指摘です。

これに対するスポンヴィル氏の回答は、「法人とは制度に過ぎない」というものです。確かに、法人は人と同じように所有権などが法的に認められた存在、という意味で、一つの制度です。

しかし、今日の世界で、法人は政治的な発言力を強めています。、先週のブログにも書きましたが、米国のライフル協会や石油業界が政界に厳然たる指導力を発揮していることは良く知られたことですし、ロシアの企業が国の政治力と密接に結びついていることも事実です。

このような事態は、特に民主主義を標榜する国家においては、あまり好ましいこととはいえません。このような行為が行き過ぎますと、主権在民、ではなく、企業が統治者になってしまう恐れが生じるのですね。ブッシュの米国は、そのような危険な領域に一歩足を踏み入れているように思われます。

営利の追求が行動理念である企業が社会制度を左右する現象は、同書によりますと「滑稽」と呼ばれる範疇に属するのですが、これは単なる滑稽では済まない、危惧すべきリスクであるように、私には思われます。

法は、自然人たる個人が心のうちに抱く、道徳律に則して定められるべきものです。営利追求を旨とする企業が法の制定に関わるのは、本末転倒、といわざるを得ません。

そういう意味からは、企業献金なども好ましいものではなく、経団連が政治的に動くことも、あまり好ましいものとはいえません。経営者がポケットマネーから献金し、経営者個人が政治活動をする、というのであれば、まことに理想的なのですが。

現実的な解を求めて

まあしかし、現実は現実。理想論を述べても始まりますまい。国際競争の中で、各国企業が自国の政府に働きかけているという現実がある以上、一国のみが企業の政治への働きかけを行わないでおりますと、競争上の不利益は免れません。企業が国際競争力を欠けば、一国の経済までをも傾け、国民の多くが困窮する恐れが多分にあるのですね。

結局のところ、企業の政治活動を含めて、道徳律に合う形での法制の整備が、求められるのでしょう。そしてそれは、国際的にも普遍性をもったルールとしなければ、実効性を欠くのでしょう。「倫理・道徳」と「科学・技術・経済」の狭間で「政治・法律」に期待される部分が極めて大きい、というわけですね。

とはいうものの、これには大きな困難も伴います。「科学・技術・経済」が国境を越えて活動しているのに対し、「政治・法律」の世界は、一国の内部では有効に機能しているものの、国際的な協調は充分でありません。更に「倫理・道徳」にいたっては、国家間の対立すら存在するのが現実です。

グローバルスタンダードや、世界を民主化する、という方向性は悪いものではないのですが、その内容を仔細にみてまいりますと、乗り越えなければならない困難な問題が多々ある、と同書を読んで強く感じました次第です。