中島義道著「哲学者というならず者がいる」を読む

本日は、少々ひねくれた哲学エッセー、中島義道の「哲学者というならず者がいる」を読むことといたしましょう。

1. 中島氏の立場

同書は、先月出版の比較的新しい本ですが、初出は2004年10月から2006年12月に『新潮45』に連載されたもの。ちょうどホリエモン逮捕の時期を含んでおりまして、マスコミを通じて流されたさまざまな人たちのホリエモン批判を、中嶋氏は痛烈に批判しております。その内容は、まことにごもっとも、といわざるを得ません。わが国のマスコミ論調や、お役所の人たちのどうしようもなさに、日頃怒りを覚えている方にはお奨めの一冊、といえるでしょう。

中島氏の職業は哲学者にして大学教授にして著述業。専門はカント、とお見受けいたします。

このブログでもカントを少しだけ読んでいるのですが、もちろん、本ブログの読み方と中島氏の読み方は、全くレベルが違います。そもそも、「カントを教える」ということになりますと、カントの思想を間違いなくトレースしなくてはいけませんし、用語につきましても、カントの用法に沿って、正しくその定義を理解して用いなくてはいけません。「自らの知」を目的として、カントをそのヒント程度にとらえておりますこのブログの扱いとは、おのずと異なったものになるわけです。

まあ、このブログも、最近は、倫理・道徳の側に興味の中心をシフトしておりますので、いずれカントは、もう少し詳細に押さえる必要はありそうです。それにしても、自己愛と倫理を峻別するカントのやり方には、私は少々疑問を抱いておりまして、それを言ってしまえば、地獄を恐れ天国に召されることを願うキリスト教信者の道徳は、最初から自己愛だけではないのか、との疑念が晴れないのですね。

2. 強い個人主義と弱い個人主義

閑話休題。同書の記述に関して読者の受ける印象は、おそらく、好悪両極端に二分されそうな気がいたします。中島氏が同書で痛烈に批判いたしますのは、日本人のどうしようもなさが醜く現れた部分です。そのどうしようもなさは、日本人の個人主義に対する誤解と、諸外国の個人主義との違いに起因している、と分析いたします。

第一に、個人主義とは個人の欲望の充足を目指すものであって、「お互いの人格を尊重し合う」などという奇麗事ではない、それは日本においても、西洋においても、あるいは共産主義国家においても違いはないのだ、ということを主張いたします。そして、竹内靖雄の『日本人の行動文法』を引いて、西洋型の「強い個人主義」と日本型の「弱い個人主義」を次のように対比いたします。

強い個人主義
(1) 利益の追求に集中する。
(2) 他人との関係において攻撃的で、競争志向的である。
(3) 市場を利用する。すなわち、市場ゲームの個人プレーヤーとして生きようとする。

弱い個人主義
(1) 不利益の回避を重視する。
(2) 他人との関係において防衛的で、競争回避的になる。
(3) 集団を利用する。すなわち、個人はまず集団に所属し、その集団が市場ゲームのプレーヤーとなる。

なるほど、これは面白い視点です。少し古い本ですが、集英社新書のサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突と21世紀の日本」を最近読みました。ハンチントンは、多くの社会学者と同様、日本を独立した文明として捉えているのですが、この文明は、強国と同盟して自らの安全を守るという特性があるとして、次のように記述します。

アメリカがはっきりした決意も公約も示していないし、その可能性も低いので、日本は中国に順応するようになるだろう。1930年代と40年代に、日本は東アジアを征服するという一方的な政策を追及して、壊滅的な結果を招いたが、この時代をのぞいては日本は歴史的にも、自国が適切と考える強国と同盟して安全を護ってきた。

1930年代に枢軸に参加したときでさえ、日本は当時の世界政治の中で最も強力な軍事志向をもつ勢力と考えた相手と手を結んだのである。

20世紀のはじめに日英同盟を結んだが、当時の世界情勢の中でイギリスが指導的国家だということをよく認識していたのだ。

1950年代になると、同じように世界で最も強大で、日本の安全を守ってくれる大国であるアメリカと日本は手を結んだ。中国と同じように日本も、国内政治が階層的なので国際政治の問題も階層的なものと考える。日本のある著名な学者は次のように述べている。

日本人が国際社会における日本の立場を考えるとき、日本の国内モデルから類推することが多い。日本人は国際秩序を、日本の社会の内部では明らかな、縦の組織形態の関連で特徴づけられる文化の形態を外部に示すことだと考える。国際秩序をこのように見るのは、長きにわたった前近代の日中関係(進貢システム)で得た経験によるところが多い。

日本で長く暮らしたある西欧人は、これと同意見だ。日本人は「不可抗力を受け入れ、道徳的にすぐれていると思われるものと協力するのが、他のほとんどの国よりすみやかだ。そして道徳的に不確かな、力の衰えはじめた覇権国からの横暴な態度を非難するのも一番早い」。アジアでのアメリカの役割が小さくなり、中国のそれが増大するにつれ、日本の政策もそれに順応するだろう。

すなわち、日本の文化というものは、個人が組織に帰属意識を持ち、チームとしてプレーすることで自らの利益の極大化を図るのに対し、本来の個人主義は、個々人がそれぞれの利益の極大化を図る、という違いがあります。この文化が、日本という国家の国際戦略にも反映されて、いずれかの覇権国に従属する形を取りやすい、とハンチントンは主張いたします。

3. 中国は米国から覇権国家の地位を奪うか

しかし、米国が覇権国の地位を失うとき、中国がこれに代わるものになるとのハンチントンの予想は、私には、少々疑問に思われます。古代の中国は、当時の日本から見れば文化がはるかに進んでおりましたし、明治時代の英国も当時の日本から見れば理想的な姿、ナチスのドイツも同様であり、第二次大戦後の米国には理想に燃える人々がおり、これが日本の戦後政治の方向付けをいたしました。これらの国々と同様の、日本人からみても理想的な国家に、果たして中国がなりえるだろうか、と考えるとき、私には、その可能性は極めて薄いように思われます。

中国は、人口において世界中のいかなる国をもはるかに凌駕しており、利用可能な国土面積におきましても世界のトップクラスです。この規模がもたらす当然の帰結として、中国が経済力で世界のトップに立つことは時間の問題でしょう。また、軍事力においても、日本はおろか、米国を凌ぐようになるのも、さほど遠い将来ではないでしょう。

しかしながら、現在の中国は、日本に比較して、貧富の差は激しく、官僚は腐敗している。そして、何よりも中国共産党の一党支配であり、思想信教の自由はなく、言論は統制されております。清朝崩壊後、外国からの干渉による混乱期を抜けた後は、共産党の一党支配を続けており、政治的な意味では、未だ近代にすら到達していない、とすらみなすことだってできそうです。

そんな中国が、日本人にとって、従属したくなるほど魅力的な国家となるのか、と問われれば、それは当面は無理である、といわざるを得ません。中国への従属という政策が日本の国際戦略の選択肢の一つであり得るという状況に至る道筋は、現在のところ全くみえておらず、仮にそれがあるとしても、その実現には相当な年月が必要でしょう。

となりますと、世界の向かう方向は、中心を欠く、多極化の方向であり、日本は他国に追従するのではなく、日本独自の道を歩まざるを得ないのではないか、と私には思われるのですね。

そんな時代には、「縦の組織形態」といった秩序は国際的に意味を失います。わが国は、庇護者たる他国の顔色をうかがう必然性を失い、独自の論理に基づき自国の利益極大化を追求すべきだし、それを国際的に主張しうるだけの、思想的、哲学的根拠を持たなければならない、と思う次第です。

4. 多極化の時代と普遍文明

多極化の時代は、さまざまな文化を背景にもつ国々が主張を戦わせる時代となります。そのような多様性の時代に言説が力をもちえるためには、普遍性に基礎を置かなくてはなりません。

移民国家米国のすぐれた点は、普遍的社会制度にあります。またヨーロッパ諸国も、歴史も文化も異にする諸国が一つの集団、EUを形成しております。

西洋文明こそが普遍文明である、とのかつての自信は揺らいだものの、欧米の知性が普遍性を目指すその姿勢には変化はありません。だからこそ、欧米、特に米国は、他国の出来事に口を挟む、という悪癖から抜け出せないのでしょう。

しかし一方で、欧米思想の根底にあるプラグマティズムとこれを支えるプロテスタント、つまるところはキリスト教という宗教は、普遍文明とは相容れない存在です。

将来の世界が一つの文明の下に集約されるとすれば、それは普遍文明でしかありえないことから、米国の、あるいは西欧文明がその土台となる確率は相当に高いものと思われます。しかしそれでは、西欧文明が宗教を超越できるか、と考えればこれも難しいでしょう。

5. 日本文明の独自の位置

欧米の主張に応じて、日本はグローバルスタンダードを受け入れる方向に舵をとりました。これは、今日の世界経済と日本の関係を考えるとき、避けることのできない選択であると、私は思います。

しかし、これが国内の諸制度と齟齬をきたさないようにするためには、日本は、欧米流の普遍的社会制度をも受け入れざるを得ず、縦の組織形態といった日本古来のありかたから、純粋な個人主義の方向に、社会のあり方と個人の意識を変質させる必要に迫られるはずです。

そして、その結果生まれるであろう将来の日本文明こそが、世界が共通に属すことの可能な、普遍文明に最も近いのではなかろうか、と私には思われます。

なにぶん、正月に神社に詣で、葬式に仏教の僧侶を呼び、クリスマスを祝う日本人は、宗教に関するかぎり恐ろしいばかりの包容力を示しております。これでもう少し、思想哲学の部分を明確にし、自らの方向性を自らが決する主体性を獲得できれば、普遍文明の旗頭として、世界のリーダー的立場にたつことも、ありえない話ではなかろう、と私は夢想しております。

確かに現在の日本、哲学者の目から見れば、おかしなことは山のようにあるのでしょう。しかし現在においても、それをおかしいと気付いている人も多いし、時間の経過とともに、現在はなんとも思っていない人たちも、徐々にそのおかしさに気づくことになるでしょう。

そのような動きを加速すること、つまりはこの世界が成立する基礎を明らかにし、社会制度がいかにあらねばならないか、といった指導的理念を確立することこそ、今日のわが国の思想家、哲学者に期待されているのではなかろうか、と私は思います。

神は細部に宿る、という言葉を否定しはいたしませんが、あまり細かなことにばかりに拘っていては、なかなか前には進まないのではなかろうか、という感想を、私は同書を読んで強く受けた次第です。

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