魚津邦夫著「プラグマティズムの思想」を読む

最初にお断り。個人的な事情により、明日より日曜日までの間、私の生活時間が不規則となり、ネットへの接続も困難となるケースが予想されます。本ブログの書き込みも、不安定となることが予想されますことをご了承ください。ま、ぶっちゃけた話、旅行に行く、ということなのですが、、、

1. プラグマティズムとは何か

さて、最近、欧米の思想なり社会制度に対する問題点をいろいろと議論してまいりましたが、特に米国の思想の根底にあると考えられるプラグマティズムについて少し考えてみよう、ということで、本日はずばり、「プラグマティズムの思想」を読んでみることにいたしました。ちくま学芸文庫のこの一冊、お値段税別1,300円と少々張りますが、米国のプラグマティズムに関しては、非常に良くまとまった一冊、読んで損のない本ではあります。

そもそもプラグマティズムとは何か、といいますと、次の部分が参考になります。

パースは、形而上学の大部分は一掃すべきであって、そのためにはプラグマティック・マキシムを適用すればよい、とのべた後に、「私はカントの『純粋理性批判』に対する反省によってこのマキシムにみちびかれた」とつけくわえている。

さて、カントの『純粋理性批判』の「超越論的方法論」によれば、私達の行為を規定する「実践的(プラクティッシュ)な法則」には、「実用的(プラグマティッシュ)な法則」と「道徳的(モラーリッシュ)な法則」のふたつがある。モラーリッシュな「法則」は、「幸福であることに値する」ことだけのためにはたらく法則であり、純粋理性の理念にのみもとづき、無条件に「これこれをせよ」というア・プリオリな(経験にもとづかない)「定言命令」のかたちであたえられる。

これにたいして「プラグマティッシュな法則」は、幸福を獲得するという目的のためには、「これこれのことをすれば、自然の欲求を満足させるしかじかの効果(すなわち幸福)が得られるであろう」という、「仮言命令」のかたちであたえられる、ア・ポステリオリな(経験にもとづく)法則である。パースはこれにヒントを得て、観念の意味を明晰にするという目的のためには、「これこれの実験をすれば、しかじかの観察可能な結果が得られるであろう」という経験にもとづくプラグマティックマクシムを考案したのである。

少々長い引用になってしまいましたが、この部分で、プラグマティズムに関する、ほとんど全てが語られているように思います。

2. プラグマティズムに欠けているもの

以前のこのブログで、「反西洋思想」をご紹介しましたが、その根底には「知の西洋に対して魂の東洋」という対比があり、「知は目標に至る筋道を与えることで物質的な価値を生み出し、生活を豊かにするのですが、正しい目標は魂が与える、というわけです」と書いたのですが、上の引用部は、まさにこれに対応しております。すなわち、プラグマティズムは、最初から魂の部分、何が正しい目標か、という部分を切り捨てておりまして、目標に至る筋道のみを追い求める、知を重視する思想である、ということになります。

その場合、何が目標になるのか、といいますと、結局は欲求の充足、すなわち物質的豊かさが目標ということになり、経済的な利益の追求が第一優先、ということになってしまうことも、当然の結果といえるのでしょう。

しかし、「幸福であることに値する」かどうか、すなわち、自らが倫理・道徳に適った存在であるのかどうか、という視点をあっさりと切り捨ててしまっても良いものなのでしょうか?

以前このブログで「資本主義に徳はあるか」という本をご紹介いたしましたが、この中で、実行可能性を軸とする科学・技術・経済の第1層、合法違法を軸とする社会制度・法律の第2層、そして、なすべきこと、なさざるべきことを軸とする倫理・道徳の第3層があることをご紹介いたしました。科学・技術・経済の第1層を規制するのは社会制度・法律の第2層であり、社会制度・法律を規制するのが倫理・道徳の第3層である、というのが、著者のスポンヴィル氏の主張なのですね。

しかし、ここで、プラグマティズムが倫理・道徳の層を無視する、ということになりますと、法にせよ、社会制度にせよ、その暴走を規制するものがなくなってしまいます。

もちろん、現実の米国の姿は、それほどプラグマティズム一色というわけでもなく、市民の良識もまだ残っているのでしょう。だからこそ、さほどひどい状態にもならずに済んでいる(これには異論もあるでしょうが)のでしょう。

ただ、社会をリードする人々がこのような思想に染まっているとすれば、これは少々危険な状況である、と思います。

3. ネオリベという病

さて、そんな心配が、実は現実なんだよ、と主張するのが、ニューヨーク市立大学人類学科教授のデヴィット・ハーヴェイ氏の著書「ネオリベラリズムとは何か」です。同書は今年の3月23日発行という非常に新しい本ですが、「ネオリベ」がこの先のキーワードになるかもしれないと思わせるような、少々刺激的な書物ではあります。

著者の基本的スタンスが、なんと、マルクス主義でありますことは、少々首を傾げたくもなるのですが、その主張は極めてまとも、というよりも驚くべきことでして、何しろイラクで米国がしていることは、公共事業の完全民営化、外国資本への門戸開放である一方で、労働者の権利は制限し、一律の税金を課す、と。しかもこれらの政策を、選挙前に米国が選んだイラク暫定政権に実行させる、というわけですね。

このように政策を並べられますと、米国がイラクでしようとしていることは明白。イラクの民主化でも、民の幸福でもなく、ただただ米国企業に稼ぐチャンスを与えること。ま、そうであろうことは、元々、米国がイラクに侵攻する前から、世界中の人が怪しんでいたことでありまして、いまさら驚くような話ではない、のかもしれません。

しかし、こういうことをやりますと、イラクの民が怒り出すことは自明の理であるわけで、イラクが泥沼化してしまうのも当然の結果であった、としかいいようがありません。こういう馬鹿げた行為には、日本は付き合わないほうが得策。自衛隊をさっさと帰したのは、まことに当を得た政策であったといえるでしょう。

さて、このネオリベ、今日の日本においても、あらゆる場所に顔を出しております。ただ、著者の主張するように、その全てを否定的にみるのもどうかと思います。古い業界秩序を守っていては、新しい創業機会も抑制されるでしょうし、公営企業の非効率さは目に余るものがありました。

とはいいましても、ネオリベの世となりますと、勝ち組、負け組がはっきりいたします。勝ち組は、お金持ち、大企業、早い話が社会的強者でして、一般庶民は負け組みになるしかありません。そこから勝組になるためには、一つには、株式投資を(ギャンブルではない、資産形成の道として)すること、自らが事業を起こすこと、位しかなさそうです。

もちろん、そんな世の中が良い、というわけもなく、ネオリベの弊害が徐々に明らかになれば、これを規制する方向にも動く可能性が高いでしょう。まずは、ファンドなどの目に余る行為を規制しなくてはなりませんし、企業の政治に対する働きかけも、国際的に、規制されてしかるべきでしょう。

ただこれが、プラグマティズムに染まりきった米国の指導者に理解されるかどうか、心もとないことではあるのですが、ヨーロッパの知性は健在である様子。全く悲観的になる必要もないのではないか、と思う次第です。