ハーバーマス「討議倫理」を読む

最近、倫理・道徳づいているこのブログですが、本日はユルゲン・ハーバーマス著「討議倫理」を読むことといたしましょう。

1. 倫理と道徳と正義と

まず最初にお断りしておきますが、この本は、普通の人向きではありません。しょっぱなから、カントの倫理哲学に対するヘーゲルの批判に割り込む形で、超、難解な議論が展開されます。まあしかし、ざっと読んだ感じでは、倫理・道徳の問題は一筋縄で議論できるような問題ではないということが良くわかります。

この本の中で最もとっつきやすいところは、訳者の清水多吉、朝倉輝一の両氏によります「訳語について」と「訳者解説」の部分です。これらの部分、倫理・道徳に関する良い解説となっているのですね。ここでは、まず、これらの部分をざっとまとめてご紹介し、それから本文の内容をつまみ食いすることといたしましょう。なにぶん、私も本文を全部理解できているわけではありませんので。

さて、以前のこのブログで読みましたスポンヴィル氏の「資本主義に徳はあるか」では、倫理と道徳を異なる階層の指導原理として扱っておりましたが、その差異は大きなものではなく、私は一つの階層にまとめてしまっても良いか、と感じておりました。

今回の本によりますと、元々ありましたのが「倫理」。古代ギリシャのアリストテレス以来問われてまいりました「人間の善き生き方」が「倫理」であり、一方の「道徳」は、カントに代表される近代的哲学者の生み出した概念で、「なすべきこと、なさざるべきことを命じる人の内なる声」というわけです。

「倫理・道徳」と似ております「正義」はアリストテレスの唱えました概念でして、「財を介しての他者との交わり方」が「正義」、ハーバーマスによります「善〔財〕倫理」ということになります。

2. コールバーグの道徳意識の発達段階説

もう一つ、道徳を論じるうえで重要なのが「コールバーグの理論」です。コールバーグは人の発達段階に対応して道徳意識は6つの段階を経て成長する、と説きます。

この6段階、段階1の懲罰回避志向段階2の快楽追及志向は良いと致しまして、段階3の「良い子志向」は、集団に属し、良い人間関係を維持しようと努める段階でして、子供の世界のように語られますが、なんとなく日本人の道徳意識がこの段階で止まっているような気もいたします。業界の利益を守るための談合なども、業界内の良い関係を維持しようとする道徳意識の表れではあるのでしょう。

段階4は「法と秩序の維持」でして、ここまでまいりますと「脱談合」となります。最近の建設業界は、道徳レベルが1段階向上した、ということなのかもしれませんね。とはいえ、段階4では、法に触れないことなら何でもやってしまえ、ということでして、ハゲタカファンドの道徳レベルでもあります。

営利の追求を至上命令といたします市場経済下で活動いたします企業としては、このレベルにとどまる可能性が高いものと思われます。しかし、このレベルは、当然クリアされるべき、最低限のレベルであり、このレベルにとどまっていては、社会の尊敬を勝ち得ることは難しいのではないかと思います。ま、ハゲタカファンド並、ということですね。

更に段階5では、自律的な遵法志向となりまして、法律で禁止されているから、という理由を超えて、個人の権利の尊重や自由平等など、原理原則部分での道徳意識を持つようになります。企業のコンプライアンス活動も、「違法行為をしない」という最低のレベルから「道徳の原理原則に則した活動をする」というレベルまで引き上げることができれば立派なのですが、どうも今のところは段階4止まり、という印象を受けます。

わかりやすく申しますと、本来支払うべき保険金を正しく支払う、というのが段階4、顧客に誤解を与えかねない宣伝などは行わない、というのが段階5でして、段階4止まりの企業が多い場合は、あちこちで消費者の不満が頻発することになります。これが、社会問題化してまいりますと、政府は細々とした法律を作る必要に迫られます。

最後の段階6は、普遍性を志向する段階でして、「キリスト、ソクラテス、仏陀、孔子、リンカーン、キング牧師など」に代表される段階、とのこと。ふうむ、このレベルを常人に要求するのは、少々無理があるかもしれませんね。とはいえ、実行するか否かは別として、考えるだけなら凡人にでもできそうです。ま、そのくらいの野望をもって、このブログでは倫理・道徳を考察していきたいと思う次第です。

3. ハーバーマスの思想

さて、ハーバーマス氏ですが、1929年にドイツに生まれた方で、思想は社会民主主義。討議(ディスクルス)の重視がこの方の思想的バックボーンとなっておりまして、「討議倫理」に至りますことも必然的な道筋であるように思います。

あれれ? Wikipediaでは「マルクス左派」になっていますね。まあ、若い頃には暴力革命を肯定するなど、少々過激な思想の持ち主であったのですが、その後はもう少し穏健な思想の持ち主であるような印象を、私は、受けております。いずれにせよ、「法と正義」に重きをおく方で、左よりであることは確かです。

さて、このディスクルス、徹底的に討議を行って合意の道を探ろうという、そのこと自体は大変に良いのですが、なかなか議論がまとまらない、朝生の世界ともなりかねない、という批判があることも事実。まあ、ネットなどでじっくりと議論を行うのは良いのですが、リアルタイムでのやり取りでは、体力勝負ともなりかねません。

4. 道徳意識とパーソナリティ

さて、同書の中頃、104頁あたりに注目すべき記述があります。以下、この部分を引用いたしましょう。同書の、超、難解な雰囲気も楽しんでいただけるかと思います。翻訳のせいでしょうかね。

自分自身のアイデンティティについての解釈学的な解明でさえ、次のような根拠に頼らざるをえない。つまり、自己準拠的な解釈は信ずるに足るものかどうかという前提を満足させなければならないという根拠にである。このようなタイプの解釈は、「私は何者なのか」という自己の形成過程の記述的な把握に依拠している。いや少なくとも「私は何者でありたいのか」という生活設計と自我-理想に依拠している。したがって、このように解釈された自己了解が妥当しうるのは、特別な生活設計をもち特定の出身を誇る人々に対してだけであろう。それゆえ、倫理的な言明の妥当性を限定するのは、決して間違ってはいない。というのも、倫理的な言明は私に(われわれに)のみ向けられ、私に(われわれに)よってのみ答えることのできる問いの論理から生じているからである。もちろん、信ずるに足る解釈は妥当する道徳規範と一致できるものでなければならないのは言うまでもない。

ここで、道徳意識の発生する一つの仮説が語られ、否定されています。つまりは、「私はこういう人間である」と、自分も思い、他人にも認めさせる「アイデンティティ」が道徳意識の根底にあるという説は、特別な人にしかあてはまらない、と主張するのですね。しかし、このような状況は、それほど特殊な人にのみあてはまるものだとは、私には思えません。

人は社会的存在であり、他人との相互依存関係の中で生きています。つまり、人は、この世界で生活をしていく上で、さまざまな局面で他者の助けを借りており、一方で、何らかの形で他人の役に立っているのですね。

そのような関係を続けていく上で、「自分は何者なのか」、「他人は私に何を期待しているのか」ということを常に意識せざるをえませんし、他者に対しては、その人間がどんな人物であるのかを意識して付き合うことになります。

心理学では、人は仮面(ペルソナ)を付けて役割を演じている、パーソナリティを意識しているとされまして、「私は何者なのか」という自問自答は、普通の人にとりましても、社会生活を営む限り、ごく一般的な問いかけであるわけです。

そしてパーソナリティの一部に、「善い人/悪い人」という属性がありますと、大抵の人は「他人に善い人と思われたい」との願望を抱き、その結果、倫理的な規範をみずから守ることとなりますし、やばそうな行為に対しては、「おい、ちょっと待て」という内なる声を聞くこととなるのではないでしょうか。

と、いうわけで、上の引用部におけますハーバーマスの批判は、少々的を外しております。

5. 討議倫理

しかし、ハーバーマスの言いたいことは、なんとなくわかるのでして、つまり、このような形での倫理観は、みずからが所属するコミュニティと密接に結びついております。コールバーグの段階3にとどまってしまうのですね。

討議を行い合意を得る、その結果生まれた法が倫理である、というハーバーマスの主張は、確かに段階4の倫理観に期待するものであり、討議自体はコールバーグの段階5であります、倫理道徳の原理原則の上で行われるものですから、確かに、倫理の一段高いレベルを狙うことではあるのでしょう。

しかし、その原理原則とはなんであって、なんであらねばならないか、ということになりますと、それは人という存在のあり方と密接に結びついたものであるはずであり、倫理観の発生するメカニズムから議論をしなくてはならない。結局はパーソナリティ理論の発展形ではないのか、という気がいたします。

6. 倫理観の社会的広がり

さて、ハーバーマスの討議論理は、一旦棚上げすることにいたしましょう。そして、コミュニティに結びついた倫理観、コールバーグの段階3の倫理観が普遍性を持ちえる可能性について考えてみましょう。

なぜこんなことを考えるか、といいますと、最近の企業が倫理の段階を上げている。それはなぜか、という点に着目するのですね。

結局のところ、企業にせよ、コミュニティにせよ、それ自身がパーソナリティをもっています。「企業の社会的イメージ」というものを、企業自身が意識せざるをえない。その結果、社員が企業内部で「良い子」であるためには、企業の枠を超えた倫理観に基づいて行動せざるを得ない、遵法意識をもつ必要に迫られるわけです。

社会というものは重層的な構造をしておりまして、企業の中にも事業部があり、部課がある。また、企業も業界に属しており、地域社会、国家の一員として行動しています。さらに、その外側には国際社会というものがあって、結局は人類の一員として行動しているのですね。

このような社会の構造を考えるとき、それぞれの部分社会が外部の社会に対してパーソナリティを意識して行動するのであれば、その論理は普遍性をもちえる、ということになります。

企業が国家の善き一員であろうとすれば、法の遵守を意識しなくてはなりませんし、国際社会の善き一員であろうとすれば、人類全体の価値観に照らして、それは善き存在でなければなりません。

国家それ自体もパーソナリティを意識しておりまして、国際社会の中で役割を意識し、みずからの特性を意識して行動しております。そして、国家も国際社会の善き一員であろうとするのであれば、その行動原則は普遍性を持たねばならない、ということになります。

こんにちの問題は、国家の行動原則を考える際に、「善き国家/悪しき国家」という評価軸が軽視されていることに起因しているのではないか、という印象を受けます。「美しき日本」を目指すよりも「善き日本」を目指す必要があるのではないか、ということですね。もちろん、その善悪は、普遍的なものであって、外部にも通用する評価基準で判定されなければならないことは言うまでもありません。

地上の国家が、皆、こういう意識をもってくれますと、この世界はずいぶんと良いものになるはずなのですが、、、

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