養老孟司著「まともな人」を読む

バカの壁」でおなじみの養老氏の書きました「まともな人」なんて本を本屋で見かけて、思わず買ってしまいました。そのとき考えましたことは、この本には、馬鹿の対極に位置する人のことが書いてあるのではなかろうか、などと考えたのですね。

1. 「まともな人」とは

結果は、外れ。30ほどの短い時評のうちの一つの表題が「まともな人」でして、この部分には確かに、まともな人のことが書いてある、まあ、書こうと努力したことは良くわかります。ただ、これぞまとも、というサンプルは、なかなか書きにくい様子です。

まあ、これはある意味あたりまえのことでして、ヘンな人のことなら書きやすい。ヘンな人のヘンな部分を書けばよいわけですからね。でも、まともな人をあえて定義するなら、ヘンなことをしない人。これは、ある種の消去法でして、「まともな人のまともな部分」などとというものは存在しないのですね。

と、いうわけで、馬鹿の対極を同書に求めた私の期待は裏切られてしまったのですが、別の意味でなかなか面白い本であると感じました。これは、以前このブログでご紹介いたしました、同じ養老氏の著書「唯脳論」に対する解説書、だと思えばよいのですね。

唯脳論」、養老氏の露悪趣味が鼻につく本でして、肝心の言いたいことが良くわからない。脳という眼前の物体について事細かに書く一方で、我々が世界に対して持っている知識というものは、実は脳の中にあるのだよ、ということにも言及しているのですね。

この二つの話題、このブログで時々ご紹介しております「三つの世界」にあてはめますと、外界に存在する物体の世界と、それを受け止める主観の世界の話題であって、これらは別の世界に属する議論。これをごっちゃにされますと、何の話だかわからなくなってしまいます。

これにたいして「まともな人」は、物体としての脳ではなく、著者の主観を他者に伝えんとする書物という位置付けが明確に打ち出されております。まあ、「時評」などというものは本来そういうものですから、これはあたりまえであるのかもしれません。

と、なりますと、「まともな人」という表題は、養老氏自身を指す表題、であるのかもしれません。養老氏が「まともな人」として書いた書物である、というわけですね。まあ、これは自画自賛、といえなくもないのですが、あえて「まとも」と評するからには、普通はまともでないという、養老氏一流のひねった表現、かも知れないなあ、などという印象を受けた次第です。考えすぎ、ですかね?

2. 国家公務員倫理法

さて、内容にまいりましょう。ま、30もある時評がそれぞれ独立しておりますので、目に付いたところをいくつか取り上げることといたします。

まず、「いいたくないこと」で、「国家公務員倫理法」を批判いたします。この文字列を見たとき、私も目が点になりました。「倫理」を「法」で規定する、というのはどういうことでしょうか。以前のこのブログでご紹介いたしましたスポンヴィル氏なら、「滑稽」の一言でかたずけそうですが、いずれにせよ人類が営々と築き上げてきた倫理の概念を全否定するような法律。いったい、お役人という人たち、何を考えているのでしょうか。

3. 9.11

次に「テロリズム自作自演」で9.11を取り上げます。本ブログでも似たような印象を書いたことがあるのですが、これは少々過激な物言い。ちょっと引用しておきましょう。

ある映画監督と話をしていたら、今度のテロ、ありゃ『スター・ウォーズ』だよ、と力説する。五万人が人工的な環境に閉じこもり、コンピュータを使って金の計算をしている。それはつまりデス・スターじゃないか。そこへ正義の味方が特攻をかける。特攻の司令官だけは生き残るが、あとはほとんど死ぬ。

この事件を、養老氏は、私には関係がない事件である、と断じます。こういうものの考え方ができる、ということは、ある意味大事なことでして、多数の死者が出る事件を前に、人々は往々にして、思考停止に陥ります。それを利用したのがブッシュでありネオコンの人々だったのですね。

事件の悲惨さを前に思考停止状態に陥る、その結果、一部の政治思想の独走を許していては、さらに大きな悲劇を招く。これが9.11からイラク侵攻に至る一連の動きだったのではないか、と思うのですね。事件の悲惨さと、政治的議論を切り離して考える。その勇気が政治家にも、ジャーナリストにも、マスコミにも求められるのではないでしょうか。そういう意味で、養老氏の「関係ない」は、大きな一石を投じる発言です。

4. 脳という都市、身体という田舎

次、「脳という都市、身体という田舎」では、唯脳論に対する補足説明が行われます。ここで、養老氏は「客観的事実」の存在を否定します。客観的な事実などヒトの脳では知りようはずもなく、「それを知る唯一の存在、それが唯一神である」というわけですね。

もちろんこのような概念は養老氏の発明ではなく、20世紀に入りまして現象学が興隆いたしました後は、哲学を多少知る人たちにとっては、いわば常識ともいえるもの。ただそれが、一般的な常識にはなっていない、という問題があります。

サイードの「オリエンタリズム(上)(下)」に関しては、いずれ稿を改めてご紹介しようと考えているのですが、そこでは、米国の政治家の中では第一級の見識があると思われるキッシンジャーは、養老氏の見方とは正反対の主張をいたします。

早期にニュートン学説の洗礼を受け損なった文化は、現実世界がほぼ完全に観察者の主観の内側にあるとする本質的にニュートン学説前の世界観を、今に至るもなお持ちつづけている

どうやらプラグマティズムの基底には、ヒトが客観的事実を知りえる、という自信があるようで、それを支えているのがニュートン以来の啓蒙主義の伝統なのでしょう。しかしながら、ニュートンの唱えました物理法則は、現実世界の近似に過ぎないことが今日では常識となっております。

つまり、現実世界の近似に過ぎないニュートン力学の洗礼を受けて、これこそが現実世界であると信じるキッシンジャーの考え方は「現実世界がほぼ完全に観察者の主観の内側にある」とみなしていることに他なりません。「目くそ鼻くそを笑う」という言い回しの実例のような文章がここにあります。

5. 客観的世界をヒトは知りえるか

ニュートン力学が誤っていることを示しましたアインシュタインの相対性理論にせよ、広く受け入れられている仮説に過ぎないのですが、それが仮に客観的事実であったとしても、ほとんどのヒトにとりまして、この世界はちんぷんかんぷんの世界です。なにぶん、一般相対性理論をきちんと理解できている人はごくごく一部に限られておりまして、「相対論を理解している人は世界に3人しかいない」という都市伝説さえあったくらいなのですね。

とはいえ、今日の多くの人が、自然科学の研究に携わる多くの学者でさえも、客観的世界をヒトは知りえる、と考えていることも現実です。この溝は、プラグマティズムと哲学なり形而上学(メタフィジックス)なりの間の溝、ともいえそうですが、プラグマティズムが形而上学に背を向けがちであるため、これを埋めることは相当に難しそうです。

まあ、私には、この溝こそが、近年の物理学が直面している問題の鍵であると思われるのですが、これを超えることは、物理学者にも困難ですし、政治思想の世界ではもっと困難であるように思われるのですね。これは今日の人類が直面している、大きな課題ではなかろうか、とも私は考えている次第です。

と、いうような背景からこれを読みますと、養老氏のこの発言には勇気付けられる一方で、もう少し哲学的バックグラウンドに触れて、説得力のある書き方をしていただければありがたい、と強く感じる次第です。

6. 「哲学」の至らなさ

まだ少々スペースがあります。もう少し続けましょう。「カブト虫の角」で養老氏は次のように述べます。

包丁の扱い方を覚えたら、それは和洋中華、いずれの台所でも利用できるはずである。哲学が諸学の学、学問の基礎になったのは、それが「ものの考え方」を教えるからである。カントがなにをいい、ヘーゲルがなにをいったか。それを教えるのが哲学だと私は思わない。カントはなにを疑問に思い、それについてどう考えたのか。そうした考え方が、私が当面の問題を考えるときの参考になるかもしれない。そこが大切なのである。

まったくです。哲学の書物には、哲学者をずらずらと並べて、それぞれがなにをいったのかを書き連ねるタイプの本が多いのですが、この類の本を読みますと、その著者はあまりものを考えていないのではないか、という印象を受けます。哲学者の本分は、ものを考えることなのですがね。

物理のわかった人の書いた物理学の本などを読みますと、それぞれの科学者が、なにを問題に思い、それをどのように解決していったのか、ということが理解できます。そういった類の本の著者というのは、例えばファインマンなり、パウリなり、マックス・ボルンなりの、超一流の物理学者ではあるのですが、、、

まあ、最近は、哲学者らしい哲学者がいない、ということであるのかもしれませんね。哲学について学ぼうと思えば、新しいところでは、フッサールの書いた書物を(翻訳ですけど)読むのが一番、なのかも知れません。

さて、「ふつうの人」を通読したところでの感想ですが、当初の思惑とは少々ずれてしまいましたが、この本、考えさせられることも多い、読んで損のない本である、と思います。