西尾幹二著「個人主義とは何か」を読む

本日は「個人主義とは何か」をご紹介いたしましょう。この本が文庫化されましたのは2007年5月30日と、ごく最近(というより3日後の未来)なのですが、初出は1969年1月。「ヨーロッパの個人主義」と題しまして講談社現代新書の一冊として世に出ましたのは、なんと40年近く前のことです。

今回の文庫版は、新たに第4部「日本人と自我」が加わっており、その後の動きについても触れておりますが、面白いことにこの本、入学試験に好んで使われる、ということ。同書の一部を切り出して、これに反論を加えよ、などという問題の出され方をいたしまして、西尾氏、憮然としておりますが、なんとなく面白い状況ではありますね。

さて、この本の内容は、40年も昔の作品とは思えず、今日読んでも古臭くはありません。まあ、40年前の評論のクセ、というのは少々感じられまして、40年前の当時は、欧米を紹介して、だから日本は遅れている、という論調が多かったのですが、同書はこの「進んでいる/遅れている」という二分法に反論いたします。しかし、欧米とは異なる日本の特殊性を強調し、その部分に問題ありとするわけですから、結局のところは同じ路線上を進んでいる、との印象も受けます。

まず、欧米は進んでいるという考え方を否定いたします。そもそもなにが進んでいて、何が遅れている、ということは一概にはいえません。封建制度には封建制度のよさがありましたし、平等が全ての面で良い、というわけでもありません。

ヨーロッパには階級意識が厳として存在し、これをもってヨーロッパは遅れているということにもならないだろう、と同書は次のように指摘いたします。

ヨーロッパ人のじっさいの社会制度や生活様式はつねに保守的であって、表面にあらわれた革新的な思想表現の歯止めの役割をさえ果たしているのである。一方に革新を拘束するものがあって、はじめて革新はその本来の役割や機能を発揮することができる。それがまた文化に安定と調和を与える基礎でもあろう。さもなければ、革新は単なるアナーキーに落ちこむことになるだろう。
……
こうしてひたすら革新のみにいそしんだ結果、日本のほうがヨーロッパよりも、やがてはるかに進歩し、近代化し、近頃ではわれわれの生活のある部分は、ヨーロッパ人の目から見れば「未来社会」に属するような性格さえおびはじめているといわれる。それでいてますますアナーキーの傾向は激化し、生活全体がバランスを失って、落ち着きのない、あわただしい日常を強いられているのが現下の情勢である。

以前のこのブログで、スポンヴィル氏の「資本主義に徳はあるか」をご紹介いたしましたが、その中でこの世界を律する、少なくとも3つの階層がある、という視点をご紹介いたしました。第一の階層が技術・経済の階層であり、第二の階層が法律・社会制度の階層、第三の階層が倫理・道徳の階層、というわけですね。

ここで、第二・第三の階層がしっかりしない状態で第一の階層だけが突出して進歩いたしますと、著者の言いますようにアナーキーな傾向に進むということになります。

先日のG8で、ファンド規制に関して議論がなされましたが、ヨーロッパの積極的な規制論に対して、日米の消極的な姿勢が目立っております。まあ、米国はファンド業界の利益を代表しておりますので、ある意味当然の対応なのですが、米国ファンドの横行に国内企業が悲鳴をあげております日本の消極的姿勢には少々疑問も感じました。

これは、単に米国追従が日本外交の基本であるというだけでなく、第一の階層を第二の階層がコントロールする、という積極性に欠けているが故ではないか、とも思われるのですね。なにぶん、これを行うためには、きちんとした判断基準、倫理観が必要なのですが、現在の日本の政治・行政をつかさどる人たちに、これを支える思想が欠如しているため、なかなか難しい要求であるというのが現実です。

第二部「個人と社会」では、日本独特の平等意識に議論が進みます。そこで、会社に長く勤めていれば出世する日本社会に対して、リーダーシップを発揮する者が出世する米国社会が対比されます。日本でも「学歴」がものをいう、ある種の不平等社会なのですが、これは社外の問題、ということで社内的には平等が貫かれるわけですね。

もちろんこの議論ができましたのは、40年近く前だからでして、現在では能力主義、成果主義の世の中となってしまいました。問題は、制度が変化したのに対し、人の心が変化していないこと。米国流の制度を取り入れるためには、社員の側も、米国流の個人主義を持たなければいけません。これがないまま制度だけいじりますと、制度が形骸化したり、不平不満が渦巻く結果となってしまいます。

問題は、わが国の企業で働く人々が、成果主義の基礎となります個人主義を身に付けることができるのか、また、企業自身が個人主義に対応した企業文化をもちえるのか、という点でして、これには社員の側にも、企業の側にも、相当な覚悟が必要であるはずのところ、どうもそういった意識をもっているところは少ないのではないか、と思われる点なのですね。

まあ、この先しばらくは混乱した状況が続くでしょうが、その過程で、企業も社員も徐々に目覚めていくのではなかろうか、と私は楽観しております。で、これに早く気付いた企業がこの先の競争を勝ち抜いていくのでしょうし、早く気付いた社員が安楽な人生を遅れるのではなかろうか、との予感もする次第です。つまるところ、個人主義の文化論は、経営学の課題でもある、というわけですね。

第三部「自由と秩序」では、国家意識が俎上に載せられます。そして、戦後日本で国家意識がタブーとなっていることを非難いたします。

なにぶん、地上には多数の国家が歴然として存在し、互いの利害をかけて張り合っておりますゆえ、わが国民の国家意識が希薄化いたしますと国益を損ねる結果となり、ひいては国民の損失となってしまいます。

国家と個人の関係を冷静に見つめること、これが本当の個人主義である、と西尾氏は主張いたします。逆に、国家を否定しても人類を絶対視するのでは、戦前の絶対的な「国家」が「人類」に置き換わっただけであり、個人が全体に服従するという基本思想は何ら変化していないのですね。

日本人が家への帰属意識を強くもつのに対し、ヨーロッパは家は社会に対して開かれており、個室が鍵で守られている点に著者は着目します。

市民が家族よりも公共生活を重視するのは、城壁の外の異質物に対する警戒心と団結心から発していることは明らかであろう。逆にいえば、外敵に対する用意から、市民一人ひとりに対し、公共に生きることの要請がある。社会に対する責任と、自由の制限は、ヨーロッパ市民社会の二つの要件であり、それはまた、市民が個人の自由の無制限の拡大がなにを意味するか、その恐ろしさを知っているという意味である。この我欲の相互調節が、個人の生き方にパターンのきまった「型」や「様式」をもたらすもとともなる。

一つの都市という「社会」の範囲が与えられることで、市民の一人ひとりが「個人」となるのである。

そこで、個人と社会のかかわりは、「役割」を分担することであり、「自由とは役割を知ることである」と著者は説きます。

最後に、著者がこの書物で最も語りたかったと思われる点、「島国日本には日本を越えていくどのような可能性があるだろうか?」という点に議論が収斂いたします。

個人が社会性を持っているところでは、さまざまな集団、都市、地域もそれぞれの個性を発揮しつつ、社会的ルールに従うのである。その相互の自由な関わり方が失われたとき、外枠である国家は一個の暴力機構と化した。戦後のヨーロッパの最大の課題は、だからなんといってもナショナル・エゴイズムの克服であり、十九世紀的な国家観の、自由放任主義の訂正である。そしてこの課題は、広くわれわれの課題でもあり、全世界の課題であるにもかかわらず、曲がりなりにもあるていどの成功をおさめているのがアメリカの協力を含む西ヨーロッパ共同体であって、ほかの地域にはその希望はほとんどないといっても過言ではないのは、われわれが政治を考えるときに、いかにその背景をなす文化的共通基盤を無視できないかの好例といえよう。

もちろんこれは米ソが絶対的な対立関係にありました40年前の議論であって、今日では状況ははるかに混沌としています。さらに1969年の米国も、ベトナム戦争の泥沼の中におりまして、西側諸国を単純に持ち上げるこの書き方には疑問を覚えます。ここは、東西対立の厳しい歴史的背景の中で、著者のスタンスが西側にあったことが表現にも現れていると考えるべきところでしょう。

しかし、当時のソヴィエトの体制が国内の文化を抑圧するものであったことは事実であり、著者はこれを次のように批判いたします。

文化の統一性は、画一性ということとは異なるのである。そこには過剰に人為的な手が加えられてはならない。地域、民族、国家のそれぞれのエゴイズムは文化の健全な発展のためにはむしろ有益な要因でなければならないし、また、そうであるようなかたちで、統一や連帯や協力が行われることが、古典的な理想なのである。

そして、この多様性と統一性こそが個人主義の条件である、とするのですね。翻って日本の文化というものを考えますとき、多様性を失った均質化した文化である、という特徴があり、これが都市の没個性であり、教育の画一化に特徴的に現れている、と説きます。

まあ、都市が個性を失うことは、ある程度は止むを得ないであろう、と私は思います。なにぶん、企業は全国的な活動を行っており、それが大きな都市であれば、似たようなデパートなり、銀行なり、コンビニなり、ファミレスなりが進出してくることは止むを得ないことでしょう。

しかし一方で、中央官庁の画一的な行政指導が、都市の没個性、教育の画一化の原因でもありまして、こちらは地方への権限委譲を進めて多様性を確保する方向に向かうべきであろう、と思います。この動きは既に現れておりますし、将来の日本に道州制が導入されれば、わが国の地域的多様性も増す方向に向かうでしょう。

と、いうわけで、同書の全体を眺めますと、分析は鋭く、著者の主張も大筋で肯定できます。ただ、同書のかかれました1969年には、日本と欧米の間の壁を取り除くことは絶望的に思われたのですが、今日ではその壁は取り除かれる方向に進み出した、とみることもできます。もちろん、その動きは現在始まったばかりであり、とうてい充分であるとはいいがたいのですが、少なくともその必要性は認識されるようになりました。

結局のところ、わが国も、文化の画一性から多様性を含んだかたちでの統一性を目指す方向に舵を切らざるを得ず、個人のレベルでも、自らの特殊性を生かしたかたちでの社会における役割分担を目指す、つまりは個々人なりのやり方で仕事をすることを考えなくてはならない社会となるでしょう。そのような現在、個人主義につきましても、改めて考察を加える必要が生じます。

そのようなことを考えますとき、この本は、40年の歳月を経た今日におきましても、今後の日本の進む方向を考えるうえで参考になりそうな一冊です。著者の西尾氏の洞察力に脱帽、です。

このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です