「現象学は<思考の原理>である」を読む(続き)

前のブログの続きです。竹田青嗣著「現象学は〈思考の原理〉である」のご紹介を続けます。

さて、「ブリタニカ草稿」には前のブログの最後で引用いたしましたことまでしか書いていないのですが、この第二の世界の上にフッサールは「客観」の再定義を行います。フッサールの「デカルト的省察」からこの部分を引用いたしますと、次のようになります。

客観的世界がもつ存在の意味は、私の原始的世界という基礎のうえに、多くの段階を経て構成される。最初の段階として際立てられるのは、私の具体的な固有存在から(原初的な我としての私から)は排除されていた我である「他者」、あるいは「他者一般」の構成という段階である。それと一つになって、しかもそれによって動機づけられて、私の原初的な「世界」のうえに一般的な意味の積み重ねが行われ、それによってこの「世界」は或る特定の「客観的」な世界「の」現象、すなわち私自身をも含めて万人にとって同一の世界「の」現象となるのである。それゆえ、それ自体で最初の異なるもの(最初の「非-自我」)は他の自我である。そして、これが構成という観点からすると、異なるものの新しい無限の領分を可能にする。つまり、客観的な自然を可能にするとともに、あらゆる他者とともに私自身もそこに属する、およそ客観的な世界を可能にするのである。

この「およそ客観的な世界」といいますのが「間主観性(相互主観性)」の世界でして、フッサールは従来用いられておりました「客観」を「間主観性」で置き換えます。少々ややこしいことは、この置き換えをいたしました関係上、フッサールが上の引用部で「客観」と書いておりますことは、旧来の意味での「客観」ではなく、「間主観性」に基づく「客観」という意味に解釈しなければならない、という点に注意しなくてはなりません。

と、いうわけでフッサールが「現象学的還元」という手法を開発した究極の狙いは、「客観の再定義」にあったのでしょう。ですから、これを含めて現象学的還元の意義を述べれば竹田氏の解説が正しいことになるのですが、書物の読み方といたしましてここまで短絡的に走ってしまうことが妥当であるかどうか、私には疑問に思われます。まあ、手早く知識を身に付ける目的の書物である、という位置づけであればこれも良し、といえなくもないのでしょうが、、、

さて、第 II 部「時代閉塞を乗り越える原理―現象学の射程」では、「一般的妥当性への信憑」を手がかりに、現象学的アプローチが社会問題を解く切り口になるのではないか、と述べます。ここで持ち上げられておりますのは以前「討議倫理」でご紹介いたしましたハーバーマスです。

このあたりになりますと、私には少々懐疑的でして、討議は手続き論であって、現象学を含む哲学が担うべき部分は、討議で語られる主張を裏付ける根拠の部分ではなかろうか、と思うのですね。

以前ご紹介いたしました竹田氏と西研氏の対談「よみがえれ、哲学」で、「進歩的知識人を目指す」などということが語られておりましたことなども背景に、うがった見方をいたしますと、ポストモダン崩壊後の業界内のポジショニング(立ち位置)を意識してのことか、などという印象も受けるのですね。

つまるところこの業界、現象学に近いサルトルをこてんぱんにやっつけたのが構造主義の祖、レヴィ・ストロースであり、構造主義の流れを汲むポスト構造主義からポストモダンの全盛時代に、現象学者は不興をかこっていた、という時代の流れがあります。で、ポストモダンが衰退いたしました現在、いよいよ現象学の出番、と考えることはまことに妥当なのですが、さて、進歩的文化人といたしましては社会問題に処方箋を示さなくてはいけません。そこで着目いたしましたのがポストモダンに邪険にされておりましたハーバーマス、という流れではなかろうか、などと、あらぬ邪推をしたくなってしまいます。

邪推はこのくらいにしておきましょう。今の世の中の問題は、党派的対立にある、と竹田氏も指摘しております。現象学対構造主義、などという対立は、マスコミ的には面白い話題であるのかも知れませんが、哲学思想を深める、という目的とは無縁の話である、と私は思います。

構造主義なりポストモダンが興隆した背景には、かつての西欧中心の一極世界であったものが、イスラムもあればアジアもある、多極的世界と向かった結果、普遍的世界への信頼が崩壊してしまったという事実があるのでしょう。

これに対して、竹田氏は、次のように述べるのですが、その可能性に関して、私は極めて懐疑的です。

このような悪循環を断ち切るには、「イデオロギー的思考」が立てている暗黙の“前提”それ自体を問題にし、何がより深い前提とされるべきかについて原理的な再構築が必要です。わたしの考えは、そのような原理論の場面でこそ、「信念対立」の克服の条件についての学である現象学が重要な役割を果たすのではないかということです。

このような視点は、例えば日教組と文部省の対立というような、当事者にとっては深刻かも知れないけど、傍から見れば馬鹿馬鹿しい対立に関しては有効な手法であるとは思いますが、多極的世界間の対立解消には無力であるように思います。

むしろ、現象学の結論である、絶対的な客観を否定し、客観を他者と共有された主観で置き換えた、というその部分にこそ、今日の問題を理解する鍵があるように思われます。

つまり、絶対的な客観があり、時間の経過と共に人の主観がそれに近づいていくものであるならば、対立はいずれ解消されることが期待されるのですが、他者と共有された主観が客観であるならば、人の集団の数だけ客観が存在し、対立は永久に解消されないことになります。

実はそうした、多文化並存の思想が構造主義であり、ポストモダンであったのですが、これらの思想は多文化並存を描き出したところまでは卓見であったのですが、ではどうすれば対立が緩和されるのか、このような混乱した状況に対する処方箋を示せないままに終っていたのですね。

一方で、では討議を尽くせば解決するか、といいますと、そのような試みはこれまでに幾度となく繰り返されているにもかかわらず、なんら解決の見通しが立たないことが問題なのであって、それが多文化並存の本質であるとさえ言えるのではないか、と私は思います。

このような状況に対して、実は現象学にもできることがあるのではないか、というのが私の考えです。それには、フッサールの現象学を一歩進める必要がある、と考えているのですね。

これには二つの切り口がありそうです。

第一に、フッサールの時代、20世紀前半という時代は、西欧文化の普遍性が信じられていた時代です。ですからその時代であれば、間主観性に基づく客観世界は、この地上に唯一存在する、といえたのですね。しかしながら、多文化並存の時代となりますと、客観世界が幾通りにも存在する。互いにあい矛盾する客観世界の間で軋轢が生じているのが現在である、といえるでしょう。

複数の客観が存在する、ということは、フッサール以前の古い客観概念では理解し難かったのですが、人間集団に共有された主観(間主観性)の上に客観を定義するのであれば、集団の数だけ異なる客観があっても差し支えありません。そのような状態は異常ではなく、多数の客観の並存を認めるという道もありえる、ということ、これが一つの切り口となりそうです。

第二に、主観の担い手は、人の大脳の生理作用であることが今日では明らかになっております。では、フッサールの定義する客観は、何が担っているのか、という点が第二の切り口となるでしょう。

間主観性とは、他者との間に概念のやり取りがあって成立するものであり、多数の知能を司る大脳が互いにコミュニケートして複雑な概念を形成するというメカニズムで成立しているものと考えられます。これは、人間における群知能である、ということもできるでしょう。

この知能の担い手は人間の集団であり、独立した客観と呼べる程度の共通認識を保有しうる集団とは、多文化並存の時代における個々の文化の担い手としての社会集団である、と考えても良さそうです。

今日の人間社会には、主観を司る個人と、人類全体という普遍的集団の間に、いくつもの知的まとまりとしての人間の群が存在し、個々の群がそれぞれに異なる客観を持っている、とみなすことができます。そして、群の保有する客観は、個々の群を外部から見れば、群の主観である、ということもできるでしょう。

そこまで考えますと、多文化並存時代の人類社会の経営に、一つの指導方針とでも言うべきものがおぼろげに現れます。すなわち、社会が個人に対すると同様に、人類社会は群を扱うべきであろう、という考え方ですね。

この考え方をもう少し説明いたしますと、人の尊厳と同じように群の尊厳を尊重すべきですし、人権と同様に群権も護られなければなりません。思想信条の自由は、個人に対してと同様、群に対しても保証されなければならないのですね。

まあ、このようなことを片隅でぼそぼそ言っていても始まらないのですが、現象学の社会的有用性ということを考えるのであれば、そういった方向もありえるのではなかろうか、と私は思う次第です。

と、いうわけで、ずいぶんと長いご紹介になってしまいました。これまでで、同書の前半だけをご紹介したのですが、その他につきましては、また機会を見て、ということにしたいと思います。