戸田山和久著「科学哲学の冒険」を読む

本日ご紹介いたしますのは、戸田山和久著「科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法を探る」です。NHKブックスの一冊のこの本、お値段税別1,120円と、文庫並にお求め易い一冊です。

同書は、科学哲学を研究する大学教授「センセイ」の元に、理系の「リカ」と哲学専攻の「テツオ」がちょくちょく訪れて、何かを食しながら科学哲学に付いて語るという、対話形式の軟らかい表現となっておりまして、初心者にもとっつきやすい一冊ではあります。

前書きによりますと、大学の教養課程から高校生あたりを読者として想定しているとのこと。まあ、専門家でなくてもすらすら読める、と著者は考えたのでしょうが、内容はかなり高度なものを含んでおり、読んでいるときはわかったつもりでも、あとで振り返るとわからなくなることもある、要注意の一冊でもあります。

まずは、内容をご紹介いたしましょう。本書は3部構成でして、「I. 科学哲学をはじめよう―理系と文系をつなぐ視点」、「II. 『電子は実在する』って言うのがこんなにも難しいとは―科学的実在論をめぐる果てしなき戦い」、「III. それでも科学は実在を捉えている―世界をまるごと理解するために」の3部から構成されております。

第I部「科学哲学をはじめよう―理系と文系をつなぐ視点」では、科学哲学という学問が何をするかが簡単に紹介されます。これによりますと、「科学という現象を理解するのが科学哲学である」ということですね。科学はなぜ可能であるかということを哲学的に考察するアプローチであります「第一哲学」とは異なり、科学がすでに存在する世界の中で、その方法論を語る学問である、と定義されます。このような立場を「自然主義」と呼びます。

次に、科学の方法論として、演繹法帰納法が紹介されます。演繹法とは、三段論法とか、背理法など、論理的にも妥当な手法です。この手法は、真であることが保証されるのですが、これだけでは新しい知識を生み出すことはできません。

一方、帰納法として、3つの方法が紹介されます。枚挙的帰納法、すなわち、調べた全てがこうだから、それ以外のものもこうであろう、という推論、アブダクション、すなわち、Aであって、Hであると仮定するとAが導かれるのでHであろう、という推論、アナロジー、すなわちaがPであればaと似ているbもPであろう、という推論の3種類があることが紹介されます。

帰納法は論理的には正しい方法ではないのですが、自然科学の法則の大部分は帰納法によって検証されております。例えば、一般相対性理論にしても、もし理論が正しければ太陽付近の恒星の位置がずれて見えるはずだ、という予想に対して実際にずれて観測されたことをもって一般相対性理論が検証されたのですが、HならばAが成り立つとき、Aは真、故にHは真、ということは論理的には導かれないのですね。

これにたいしてポパーは反証可能性による仮説の強化、という概念を主張します。これは、HならばAなのだがAは偽であった、故にHは間違っている(これは論理的にも正しい背理法です)、という反証の可能性があり、Aが真であることが確認されたなら、「Aが偽であるからHは偽、という反証可能性の一つが否定された」ことをもって、仮説Hが強化された、とするのですね。

この反証可能性による仮説の強化、という考え方は、少々厳しすぎるというのが著者の考えの様子で、著者は帰納法に対する信頼をもう少し強く持つ立場のようですが、これは仮説を真理と認めたいとする科学者の心情に近いが故ではなかろうか、という気がいたします。少なくとも、論理的には、帰納法によって導き出された仮説は、強化されはしても真理であることは保証されない、とするポパーの主張はまことに理にかなうものであるように私には思えます。

ただし著者は、ポパーの反証可能性が、科学と似非科学の見分けには役立つ、としております。似非科学の似非科学である所以は、反証できないからなのですね。

第II部「『電子は実在する』って言うのがこんなにも難しいとは―科学的実在論をめぐる果てしなき戦い」のテーマは「科学的実在論」でして、著者の立場が「自然主義」の他に「科学的実在論」であることも明らかにされます。

「実在論」の部分は少々複雑でして、人間とは独立な「世界の秩序」を認めるのが「独立性テーゼ」、人間が科学によってその秩序を知りえるとするのが「知識テーゼ」でして、その双方を認めるのが「科学的実在論」、いずれをも認めないのが「観念論」、前者のみを認めるのを「反実在論」と呼びます。

ここで、著者は双方のテーゼを認める「科学的実在論」の立場をとるのですが、このブログは「観念論」の立場をとります。その理由は、世界の秩序は概念をもって語られるものであり、科学は人の知性による世界の記述であって、人間精神の内部に存在する概念を用いて記述されるとの理由によります。

ただし、観念論を代表するカントも外界の存在を認めており、それが人間が概念を見出しうる対象として存在していることは認めているのですね。同様な考え方はデカルトも抱いており、世界に実在するのは物質の広がりだけであり、色や温度などのその他の属性は人間が精神の内部に作り出した概念的存在であるといたします。

第III部「それでも科学は実在を捉えている―世界をまるごと理解するために」で、同書は、最後に抽象化とモデルパラダイムにたどり着きます。この考え方は、実在するシステムを単純化し、そのレプリカとしてのモデルを科学は構築する、というのですね。「モデル」にまで話が進みますと、これは外界における実在とは到底みなすことは不可能であり、抽象化され、理想化されたモデルとは、実は人間精神の内部に構築された概念ではないか、ということになってしまいます。

さらには、「表象」すなわち、外界が人の精神内部に造り出すイメージ、に対してまで議論が進みます。「図、グラフ、文、方程式は、それぞれ部分的に不完全に理論を表象していると考えてもよいだろう」とまで著者は述べます。しかし、この表象こそが観念論の出発点でして、表象とは人間精神の内部に作り出された存在であり、その上に世界に対する知識があるとするのが観念論そのものであるのですね。と、なりますと、科学的実在論も、実は観念論ではなかろうか、という印象を、私は拭い去ることができません。

結局のところ、種々の理論は、極端に走れば妥当性を欠くのですが、それぞれの立場を好意的にみれば、それぞれに妥当である、といえるのではないでしょうか。

観念論にいたしましても、観念に重きをおくあまり外界の存在を消し去ってしまえば妥当性を欠きます。観念論の立場にたつ場合も、外界の事物の中に、人間精神が種々の概念なり法則なりを見出しうる原因が潜んでいることは認めざるを得ないと思います。

一方で、人間精神から完全に独立した事物に概念的意味を認めることは、概念が人間精神の内部に構築されるものである以上、無理があります。そういう意味で、どちらの立場も極端に走れば妥当性を欠く、と私は思いますし、過去の多くの哲学者も、強調する点こそは異なりますが、言っていることにさほど大きな違いがあるわけではない、と私は考える次第です。

同書は観念論の現代版であります「社会的構成主義」に対しても批判的立場をとります。社会的構成主義といいますのは、科学的事実は社会的に決定される、とする説で、簡単にいってしまえば、みんなが正しいと認めたから正しいと考えられる、とする説です。もちろんこれも、極端に走れば正しい説ではありません。いくら社会が望む学説であっても、自然の摂理に反する無理な学説は、所詮矛盾が現れてしまいますから。

しかしながら、そのような傾向が皆無か、といえば実はあるのでして、特殊相対性理論とミンコフスキーの4元時空の関係がまさにそうではないか、と私は思います。もちろん、この二つの学説は、相互に矛盾するものではありません。単に表現が違うだけ、ということはできるでしょう。

しかしながら、時間は虚数的に振舞う、という単純な仮説を認めるだけでマクスウェルの電磁理論とニュートンの力学の間の矛盾を解消するミンコフスキー流のやり方に比較して、ローレンツ変換を前面に押し出したアインシュタイン流のアプローチはいかにも複雑であり、エレガントさに欠けます。

もちろん、アインシュタインの特殊相対性理論のあとにミンコフスキーの4元時空説が唱えられたことは事実なのですが、よりエレガントな学説が登場すれば、そちらを物理法則の中心に据えることは何ら問題がないはずです。

事実、20世紀の前半は、ミンコフスキー流の解釈も多くの人によってなされておりましたし、アインシュタインが一般相対性理論を創り出す際にも、ミンコフスキーの4元時空の考え方は重要な役割を果たしたのですね。

しかしながら今日このようなエレガントな解釈があまり一般的でない、という現実は解せないのですね。この背景に、ミンコフスキーがロシア生まれであったことや、若くして他界したことなどが影響しているとすれば、これは少々問題です。

なぜ特殊相対性理論を解するにミンコフスキー流のアプローチが一般的でないか。これは現代物理教育の大いなる謎でして、業界権益を守るための社会的圧力がそうさせているのだとすれば、これは大いなる問題である、と思う次第です。

さて、まだスペースが少々ありますので、同書の主張する科学的実在論の問題点、と私が考えておりますことを、付け加えておきたいと思います。

科学的実在論は、現在の自然科学の領域での支配的な考え方なのですが、量子力学の観測問題において、無理が生じております。これは、「観測問題」と呼ばれているもので、「人が観測することによってはじめて事態が確定する」という事実を認めざるを得ない現象があり、これをどのように説明するか、という問題です。

これに対して「二つの状態が重なっている」とするものと、「世界が二つに分裂した」という二種類の解釈が現在の主導的解釈なのですが、いずれの解釈におきましても、人が観測することによって事態が確定する「波束の収縮」が発生します。

しかし、世界が人間精神と無縁の存在であるとすれば、人が観測しようがしまいが、事態は確定していなければおかしいのですね。

観念論に従えば、世界に対する解釈は人の精神的機能のうちに存在するわけですから、観測される以前に事態が確定していないことは何ら不思議なことではない、というわけです。

もう一つの問題点は、「自然科学はなにが担っていつのか」という点でして、これは人間の精神活動、つまりはヒトの大脳の情報処理機能によって行われていると考えざるを得ません。もちろん、ひとりの人間の大脳だけではなく、多数の人々の大脳がコミュニケーションチャンネルで結ばれた「学術社会」が自然科学研究の担い手であるのでしょう。

ヒトの精神と無関係に存在する自然界に、これらの情報処理機能に特定の反応を起こす原因があることは事実でしょうが、科学が扱う概念や理論そのものは、ヒトの精神的機能の内部の存在である、としか言いようがありません。それを、観念論、と呼ぶなら、観念論こそ正しい、というしかありません。


虚数時間の物理学、まとめはこちらです。

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