アリストテレス「形而上学」を読む

以前、ソクラテスについてご紹介いたしましたが、本日はギリシャの3大哲学者のもう一人、アリストテレスを取り上げることといたしましょう。本日ご紹介いたします書物は、アリストテレス著「形而上学(上)(下)」の大著。まあ、本日のところは、拾い読みからのご紹介、ということになります。

アリストテレスと形而上学

アリストテレスという方は、自然、哲学、社会、倫理と、およそありとあらゆることを取り上げて研究をした方でして、相当量の著書が失われたにもかかわらず、今日に大量の文献が残されている、ギリシャきっての哲人です。

この方は、元々プラトンの学校で学んだ方で、プラトンはソクラテスの弟子ですから、この3大哲学者、師弟の関係でつながっているのですね。でも、イデア論で理想を追い求めたプラトンに対し、アリストテレスはイデア(エイドス)には限定的な価値しか認めておらず、眼前にまさに存在するものを「実体」として、思考の中心におくべきといたしました。

さて、同書のご紹介ですが、まず、題名の「形而上学」という言葉が、多くの方にとってちんぷんかんぷんではないかと思います。これは、後世の人がつけた名前でして、Wikipediaによりますと、

『易経』繋辞上伝の“形而上者謂之道、形而下者謂之器”(形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)という表現に因んだ造語である

ということで、「自然学(器)」にたいして、その背景、前提となるべき「第一の哲学」を「形而上学」と呼んでおります。

アリストテレスの「形而上学」として今日出ております書名の由来は、アリストテレスのさまざまな原稿を後世の人が編集した「アリストテレス全典」の、「自然学(フィジカ)」に続く部分、「自然学のあと(メタフィジカ)」という安易なネーミング(正確には、タ・メタ・タ・フィジカ)でした。

しかし、「メタ」という言葉には、順序を示す以外に、「背景」といった意味もあり、「メタフィジカ」(英語で「メタフィジックス」)は、自然学を成り立たしめている背景、という意味にも解釈できます。これは、アリストテレスがこの部分で語らんとした「第一哲学」そのものを想起させる言葉であり、当初の意味とは趣を変えた形で、同じ言葉が今日広く使われております。

それにしても、日本語、中国語の「形而上学」は、わかりにくいですね。易経などという書物は、そうそう大勢の方が読んでいるとも思われないのですが、、、

アリストテレスの四因説

さて、アリストテレスの形而上学は、最初のあたりで、因果関係の原因となります4つを紹介します。これは、「質料」すなわち結果を作り出している素材と、「形相」すなわち結果の形を与えるもの、そして、「始動因」すなわち始まりと、「目的」です。

目的因と始動因は、例えば、ポケットの中に1万円札があるとき、「銀行に寄っておろしてきた」、というのが始動因であり、「アニメのDVDを買うためのお金」というのが目的因ですね。子供が分不相応な大金を持っていたとき、「何でこんな大金を持っているんだね?」との質問に、「XXを買うためさ」などと答えられては、会話がすれ違ってしまいます。ここは「始動因をきっちり説明しなさい#」というべきところでしょう。(始動因、なんて言って、わかってもらえるかな?)

一方、「形相因」と「質料因」ですが、ブロンズ像があったとき、青銅が質料に、形状が形相に相当します。ブロンズがなければブロンズ像もなく、形がなければそこにあるのはブロンズの塊だけで、ブロンズ像はありえません。

そういえば、自分の仕事を謙遜して「私は石の中に埋まっていた像を掘り出しただけ」と言った彫刻家がおられました。でも、アリストテレス流に言いますと、石は質料であり、彫刻家の仕事はこれに、最終的な作品の形であります、形相を与えたこと。形相と質料が結びついてはじめて彫刻という形あるものができるわけですから、彫刻家の仕事は、単に質料としての像を掘り出しただけではなく、形相を創造した、というべきところでしょう。

「形而上学」の最初の部分では、「形相」ではなく「実体(ウーシア)」という言葉を用いているのですが、これはプラトンの影響を強く受けた表現ではないかと思います。アリストテレスの思想の長期にわたる変遷が同じ文書に記されており、非常にわかりにくいのですが、「形相」はその概念の一部にエイドス、すなわちプラトンの重視したイデア(高度に抽象化され理想化された概念、例えば『球』)を含み、アリストテレスは別の個所ではエイドスと実体を分けて議論しております。

たとえば、アリストテレスは「ブロンズの球体」などについても言及しているのですが、この場合、「球」はプラトンの重視するイデア(エイドス)であり、形相としてのイデアと質料が合体したものが実体である、という言い方もできるのですね。

原因の追及と自然学

さて、アリストテレスが原因の追求を重視いたします理由は、それが自然学にとって重要であるからです。「形而上学(上)」307ページで、アリストテレスは次のように書きます。

たとえば、月食の原因はなにか、まず、なにがその質料か? それには質料はない。月は〔食の質料ではなくて〕食の限定を受ける当のものである。では、なにが月食を起こす始動因か、すなわちなにが月の光を消す原因か? それは地球である。しかし目的因はおそらく月食には存しないであろう。

だが形相としての原因はそれの説明方式である。しかし、その説明方式は、その中に月食の原因が言い表されていなくては不明瞭である。そこで、「月食とはなにか?」に対して、「光の欠如」と言っただけでは不明瞭であるが、「中間に地球の入り来たるによっての」と付言すれば、原因〔始動因〕を含む明瞭な説明方式になる。

アリストテレスの時代に、月食が起こるメカニズムが正しく理解されていたことにも驚きますが、ここでアリストテレスの言っていることは、(1)月食とは影の部分であるから質料因は存在しないこと、(2)目的因もおそらく存在しないこと、(3)始動因は地球により月に射す太陽光線がさえぎられたこと、(4)形相因(影の形が丸いこと)も同じくそれが地球の陰だからである、というわけですね。

なるほど、この4つの原因についてきちんと議論することが自然学を極める、ということなのでしょう。

2017.3.15追記:陰は光の欠如だから質料因(この場合は光)が存在しない、とアリストテレスはしているのですが、後日のブログ記事「影について」や「光と影の形而上学」にも書きましたように、光がなければ影もできないわけで、特に影の形を作っているものは光である、と考えるのが正当でしょう。光と影の因果関係は、電子やα線やX線など、物理学のさまざまな重要な発見に深くかかわってまいります。

存在動詞の多義性と実在に関する混乱

同書は、別々に書かれた論文をまとめたもので、しかも、当時のギリシャのさまざまな思想家の主張に対する反論があちらこちらに登場し、なかなかに読み難い書物となっております。

また、白い、健康的である、などの形容詞と実体の存在とを区別しなければならない旨の主張が繰り返しなされるのですが、これはおそらく英語の be 動詞に相当するものを、存在を示す用法と、属性を示す用法とに区別して扱わなければならない、という主張であると思われ、これが言語上も区別されている日本人にとりましては、なにを言いたいのか、よくわからないというのが実感です。(と、いうよりも、余計な心配である、といったほうが正確かもしれませんね。)

しかし、なにが実在するか、という問題は、今日でも議論の尽きない、重要な問題であると思います。これにつきまして、以下、議論したいと思います。

まず、プラトンは円や直線、あるいは数といった抽象化された概念(イデア)を重視します。これに対し、アリストテレスは目の前にある事物こそが実在であるといたします。これを今日の言葉で言えば、観念論のプラトンに対して自然主義のアリストテレス、と言うこともできるでしょう。

ただ、自然主義といいましても、以前のこのブログでご紹介いたしました「科学的実在論」と異なり、これらの実在が人間の存在と無関係に存在する、とまでは言っておりません。まあ、アリストテレスがそう考えていた可能性もあるのですが、そうは言っていない、という点は記憶にとどめておくべきでしょう。

実在を決める論理空間

なにが実在するか、という問いに対する私の答えは、それは論理空間に依存する、というものです。

まず、外界の存在自体は認めます。これは、知覚の彼岸にある世界であり、知覚を通して私たちが得る表象の原因としての存在です。人は、表象を知るのですが、これは人の精神的機能による処理を受けた結果であって、外界そのものではありません。外界そのものを人は知ることができません。

しかし、それにもかかわらず、なぜ外界が存在することを疑い得ないかといえば、外界を原因として形成される表象が、一定の保存性、法則性を持っている、ということによります。手帳に書いた文字は、時間が経過した後に手帳を開けば、仮に書いた内容を忘れていたとしても、かつて書いた内容を見出し、思い出すことができますし、他人がそれを読めば、他人がその内容を知ることになります。

このような状況下で、われわれが何物かを「存在する」と認めるのは、実は、外界の事物そのものではなく、それに触発されて形成された表象、すなわち個別概念が存在する、とみなしていることに他なりません。しかし、その個別概念は、その原因であります外界と強い結びつきがあるために、外界そのものである、という印象をわれわれに与えます。

外界そのものの具体的姿をわれわれは知りえません。また、知りえないことに関して、われわれは語ることができません。しかし、外界を原因として、知覚を通してわれわれの精神の内部に構成された、外界に対応する概念世界は、われわれが知りえる世界であり、それが外界と密接に結びついていることもまた事実です。

これを外界そのものとみなす立場が自然主義的立場、というものであるのでしょう。この立場は、こうして定義される外界が、人の精神機能と密接に結びついているという事実を忘れないのであれば、充分に受け入れられる立場であると、私には思われます。

抽象世界における実在

人は世界を概念として把握します。これは、人に限らず、動物でも行われているはずで、たとえば猫は鼠を、個々の鼠としてだけではなく、鼠、という一般概念にあてはめて把握しているはずです。だからこそ、鼠の姿を見つければ襲いかかることができるのですね。

学問は、特に自然科学は一般概念に対して、その振る舞いをエレガントに記述することを目的とします。自然科学の世界では、個々の特定の鼠はどうでもよいことであり、一般的な鼠の数であるとか生息場所であるとかが議論の対象になります。

このような一般概念の存在のあり方を議論するのが自然科学であって、その論理空間におきましては、たとえば「電子は実在する」といえるわけです。

また、概念の抽象化をさらに進めたものが数学であり、論理学であり、その世界の中でも存在を語ることができます。たとえば、「直線があったとき、直線外の一点を通りその直線に平行な直線はただ一本だけ存在する」なんてこともいえるでしょうし、「この方程式には解が存在する」といういい方も妥当です。

一方で、人がその中で生活している、日常的な生活世界におきましては、一般概念とならんで、個別概念も興味の対象となります。なにぶん、私の冷蔵庫の中に入れておきました特定の缶ビールがどうなっているか、ということは非常に重要な問題なのですね。

結局のところ、プラトン流の実在論も、アリストテレスの実在論も、それぞれが意識している論理空間が異なるだけであって、いずれも間違いではないように思います。ただ、その広がりの大きさではアリストテレスが勝っているように、私には思われます。

ブログの文字数の制限に達してしまいましたので、本日はここまで。