メタ・フィジックス:科学の限界と自然主義の地平

科学と人間精神の問題に付きまして、先ほどのブログに、「稿を改めて」などと書いてしまいましたので、忘れないうちに書き足しておくことと致します。

まず、ニュートンの物理法則が真実であると信じられていた時代、これは、カントやニーチェの活躍した時代でもあるのですが、万物は物理法則に従って動いていると考えられていました。

この常識に従えば、原子の運動は、玉突きの玉のようなものであり、すべての位置と速度がわかれば、その後の運動は全て計算で求まります。そう主張するのがラプラスの悪魔です。

現実的には、すべての原子の位置と速度を知ることなどできませんので、未来を予見することはできないのですが、少なくともこの常識が正しいのなら、人間の精神的働きも物理法則に従う、あらかじめ決まった動きしかできないはずなのですね。

一方、霊魂といった超自然的存在も、普通の人には広く信じられており、デカルトに始まる心身二元論を支持する考え方もあります。霊魂のような超自然的物体が物理現象に影響を及ぼすのであれば、人間の精神活動は霊魂の働きに帰着させれば良く、難しいことを考える必要はありません。

しかしながら、自然科学者は、霊魂の物理作用を発見することができない、という問題がありました。

20世紀に入りますと、相対性理論が提案され、ニュートンの物理法則は否定されました。相対論だけでは、確定論自体は否定されていないのですが、これに続きまして、量子力学の理論が急速に進みますと、少なくとも確定的世界観は否定されました。

量子力学は、観測に限界があることを明らかにし、従って未来の予測に制限を加えました。しかし、未来は確率として知ることができ、これに霊魂などの作用による超自然的な偏りが生じる現象も見出されません。従って、科学的には、人間が物理法則に従う存在であることが否定されたわけではありません。

しかし、近年では、物理法則が人の精神をも支配している、という問題は、忘れ去られていたように見受けられます。

この理由として私が考えておりますことは、第一に、ひとたび絶対と考えられておりましたニュートン力学が否定されたことから、物理法則は仮説であって、絶対的真理であるかどうかは定かではない、とする考え方が主流となったこと、第二に、相対論にせよ量子論にせよ、ニュートンの物理学と異なり極めて難解であったこと、などです。

しかしこれらの点は、この問題を議論する困難さを増しはしたのでしょうが、問題そのものを消し去る理由にはなりません。

一方、最近の脳科学の発達は、この問題を再燃させずにはおきません。なにぶん、自然科学が人間の脳の機能を直接解明せんとしておりまして、人間の精神活動は自然現象である、という事実が白日の元にさらされるのも時間の問題です。

以前のこのブログでご紹介いたしましたが、脳科学の研究者であります利根川進氏は、立花隆氏のインタビューに答えて、利根川氏の立場を「唯物論的だけど唯心論なの」と答えております。眼前にあります脳の働きを解明するに際しては唯物論的に振舞うけれど、研究者としての自分の精神までを考えるとき、唯心論的立場をとらざるを得ない、ということでしょう。

これはしかし、少々おかしな考え方であると思うのですが、利根川氏、立花氏の突込みに対して、「サイエンティストというのは、本質的に理解能力をこえたものや、実現の可能性がないと直感的に判断したことは、避けてとおるクセがあるのです」と、逃げを打ってしまいます。

この部分に付きましても、きちんと考えておかなければいけないだろう、というのが私の問題意識であるわけです。

さて、この問題を考えます前に、科学の枠組み、自然科学の論理空間というものについて見直しておく必要があるでしょう。

まず、自然科学は「自然主義的態度」を前提としております。これは、眼前の事物が実在するという、素直なものの考え方です(過去の記事参照)。しかし、以前のブログにも書きましたように、この考え方は少々修正する必要があります。

これは、人間が認識している「眼前の事物」は、実は眼前の事物そのものではなく、眼前の事物が感覚器官に及ぼす作用に、何段階ものニューラルネットワークの処理が加わった末に、意識に上がってきたものである、という事実によります。その処理の多くは、人の意識の外で行われており、このために、解釈された結果があたかも眼前にあるような印象を、人は受けるのでしょう。

例としては少々不適当かも知れませんが、私は以前、語学力を向上する必要性を感じまして、通勤電車のなかでトムクランシーの小説を原書で読む、ということをやっていたのですね。まあ、少々みっともないのですが、わからない単語は辞書を引いて、つっかえつっかえ読む、ということを、まあ、ペーパーバック3冊ほどやったわけです。

で、ある日テレビのチャンネルがたまたまCNNになっておりまして、さして意識もしていない状態で、英語のアナウンスが耳に入ってまいりました。そのとき驚いたことは、ろくに意識もしていないのに、ニュースで語られている内容が、眼前にその光景を見ているかのごとく、意識のうちに入ってきたのですね。

考えたら語学などというものは、そういうものでして、外国語に不慣れな人は、いちいち文法や単語の意味などを意識して英語を聞いているのですが、ある程度慣れてしまうと、そんなことは全然意識しなくても、いきなりその内容が意識の中に上がってくる。同じようなことは、他の知覚に対してもいえると思うのですね。

ちなみに、それはたまたま中東の自爆テロに関するニュースでした。で、その次に流れましたビジネスニュースは、意識しなければ内容がわからない。なにぶん、それまで読みましたトムクランシーの小説が、いずれもテロに関する内容で、使われていた単語もほとんどがその手のもの。こんなことならもう少し、まともな書物を読むべきであった、と反省した次第です。

閑話休題。人が眼前の事物とみなしているものは、実はその人が解釈した事物である、というわけですね。そこで、自然主義的態度を「Xが眼前に存在する」と考えるのではなく、「人にXという概念を抱かせる原因が眼前に存在している」という形に多少修正する必要があります。

この修正から、「人は知りえないことを語りえない」という原理が導き出されまして、これを物理学の基本原理に据えますと、量子力学の観測問題があっさり解決する、ということは以前のブログに書いたとおりです。

第二に、この解釈は、意識する人の精神的機能の内部にある概念に基づいて行われるのですが、人の精神的機能は孤立して形成されたわけではなく、他者との関わりを通じて形成されたものである、という点に注目する必要があります。


鰯雲ひとに告ぐべきことならず
(加藤楸邨)

人は、自らが持つ概念を、誰にとっても通用する、普遍的なものであるのか、それとも自分にしかわからないものであるのか、あるいは、仲間内でしか通用しない概念であるのかを知っており、特に科学者が事物を解釈する場合には、普遍的概念を用いて解釈しようとします。この結果、一人の科学者が解釈した内容は、他の人にも同じように理解されるものとなります。

第三に、自然科学においては、その言説が普遍的なものである必要があることから、必然的に、研究者の個人的事情は排除されなければならない、という点があげられます。

こうなりますと、自然科学者にとりまして、自然科学の言説といいますものは、その人の世界すべてではなく、一部に限定された世界ということになります。研究者は、あるときは科研費の配分に頭を悩まし、あるときは研究室の運営に頭を悩まし、あるときは学問上の論理に頭を悩ますのですが、それぞれは別の世界、異なる論理空間に属す事象です。

だから、脳科学の結論が、人の精神は物理現象で説明できる、としたところで、それがすべての世界を律する、と考える必要はありません。精神が自然現象である、というのは、自然科学という論理空間での話であり、そんなことは、科研費の獲得に関わる戦略には何の関係もない話なのですね。

そもそも、科学の世界内部にも複数の論理空間が存在します。不確定性理論は、ユークリッド幾何学の前提(大きさを持たない点、などなど)を否定するのですが、それが幾何学を否定することにはなりません。相対論(重力理論)は、もう少し大きな影響を幾何学に与えますが、これとて、幾何学の論理的枠組みを否定するものではありません。それが現実の宇宙で成り立つかどうかについては、多少の修正を加えるのですが、論理自体に影響するものではありません。

複数の論理空間を措定する必要があることは、デカルトにせよフッサールにせよ言明しているのですが、これに関する詳しい説明はなされていないように思います。まあしかしこんなことは人生におきましては自明のこと。人は時と場合によって態度を変えますし、ファンタジーやゲームの世界を楽しむことだってあるのですね。

しかし、どうも、哲学・思想の世界にまいりますと、人はそれができない頑固者に豹変してしまうように見受けられます。これは少々困った現象である、と私は思うのですが、、、