アーサー・ファイン著「シェイキーゲーム」を読む

量子力学における観測問題を議論するさいに、落としてはいけない文献、アーサー・ファインの「シェイキーゲーム―アインシュタインと量子の世界」を本日は読むといたしましょう。

1. アインシュタインの反量子論

同書は、アインシュタインとシュレディンガーの間で交わされたレターを紹介しておりまして、例の「猫」の実験に関して、当事者の考えを知ることができる、貴重な文献といえるでしょう。

さて、内容のご紹介とまいります。同書は9章構成となっております。以下、各章の内容をご紹介し、私の考えを追記することといたします。

第1章「シェイキーゲーム」は、序論に相当する短い章で、同書の内容をざっと紹介しております。

第2章「若きアインシュタインと老いたるアインシュタイン」第3章「量子論へのアインシュタインの批判―EPRの根源と重要性」で、アインシュタインの量子力学との関わり、特にこれに対する疑問につき紹介します。誤解を恐れず簡単にいってしまえば、量子力学は、確率的にしか自然を記述できないため、そのような理論は不完全である、とするのがアインシュタインの量子力学に対する不満です。

第4章「アインシュタインの統計的解釈とはどんなものか? また、ベルの定理が弔鐘を鳴らしているのはアインシュタインに対してなのか?」では、アインシュタインによる状態関数の「アンサンブル解釈」を紹介いたします。ただ、アインシュタイン自身は、その内容について何も語っておらず、著者のファイン氏がその内容を推理する、というわけです。

この内容は、量子力学に関する高度な議論を含みますので省略しますが、要するに、アインシュタインは馬鹿げた解釈を提示して、否定してもらいたかったにもかかわらず、言葉が足りず、周囲の人々がこの考え方を掘り下げてしまった、ということが真相である様子。まあ、じっさいのところは、私にはわかりかねますが、、、

2. シュレディンガーの猫の真相

第5章「シュレディンガーの猫とアインシュタインの猫―パラドックスの誕生」で、いよいよ「猫」の登場です。

このパラドックスで、私がかねてから疑問に思っていたことは、箱の中に猫と一緒に入れられたのは、果たして爆弾であるのか、毒薬であるのか、という点です。一般的には、猫とともに箱に収められたのは毒薬、とされているのですが、ポパーは爆弾としております。

これに対する私の推理は、オリジナルが爆弾であった、というもので、後の人が毒薬に訂正したのではないか、というものだったのですね。なにぶん、箱の中で爆弾が炸裂いたしますと、箱の外にいたのがどれほどぼんやりものの科学者であろうとも、爆弾がどうなったかくらいは判るだろう、と考えたからなのですね。

ところが真相はなかなか複雑な事情があった様子です。

まず、シュレディンガーの最初の提案は、放射性物質がガイガーカウンターを鳴らしたとき、青酸の小瓶をハンマーで割る、というもの。これにたいして、アインシュタインが、同じく不安定な系で(猫云々は除いて)火薬が炸裂するかしないか、という問題を提示します。そしてこういうのですね。

現実には、爆発した状態と爆発していない状態との中間などないからです。

そして、のちにシュレディンガーに手紙を書いて、こう述べます。

彼らはともかく、現実の記述をしかも完全な記述をさえ与えると信じています。けれどもこの解釈は、放射性原子+ガイガー計数管+増幅装置+1発の火薬+猫を箱に入れるという、あなたの系によってもっともエレガントに否定されています。そこでは系のΨ関数は生きた猫と粉々になった猫を同時に含んでいます。

な~るほど。これは一つのギャグだった、というわけですね。まあ、この部分、どうでもよいことであるのかもしれませんが、面白い話ではあります。

3. アインシュタインの実在論

第6章「アインシュタインの実在論」では、シルプの文献を引いて、アインシュタインの考え方をつぎのように述べます。

物理学とは、観察されていることから独立と考えられる実在を概念的に把握する試みである。“物理的実在”というのはこの意味である。

この考え方は、観察結果の羅列ではなく、体系をつくりだす試みでなければならない、という意味なのですが、私には、「概念」と「観察されていることから独立」という二つの観点には矛盾があるように思われます。似たような言辞は他にも引用されております。たとえば、

物理学は実在する世界のモデルを、その法則的な構造とともに、概念的に構築する試みです。

あるいは、

要約すれば物理的思考の枠組みを次のように言うことができます。実証と知覚から独立な物理的実在が存在します。それは、現象と空間と時間の中で記述する理論的な構成によって完全に理解できます。

などなどがあるのですが、「実証と知覚から独立な物理的実在」があったとして、それを人が理解するのであれば、もはやこれは人間と独立な存在ではないはずだ、と私は思うのですね。

まあ、このあたりはいろいろと議論のあるところなのでしょうが。

4. 自然な存在論的態度

さて、同書は、アインシュタインに関する記述を以上で終わり、第7章「自然な存在論的態度」第8章「そして反実在論でもなく」では、著者ファイン氏が「自然な存在論的態度(NOA: Natural Ontological Attitude)」と呼ぶ存在論を提唱します。これは、実在論でも非実在論でもない、自然な態度、という意味でして、物理法則を記述するだけで、それが実在するかしないかについては何の主張もしない、という態度です。

これは、少々ずるいやり方のような気がしますが、実在するのしないのと言い張ってみたところで、現実には何の変わりもないわけですから、所詮むだな議論ではあります。

しかし、「実在」という言葉に込められた意味は、その信頼性、確実性であり、特に人間固有の思い違いなどに左右されない、確固とした存在を意味しているのではないか、と思うのですね。そうなりますと、単に「実在」という概念を消去しただけでは済まないように、私には思われます。

第9章「科学的実在論は量子物理学と両立できるか?」は、まとめの章でして、著者はNOAを強調して書を閉じます。終わりの部分を引用しておきましょう。皆さんはこの主張に対して、どう思われるでしょうか?

確かに、分子と原子が存在すると信じる理由はあるし、……いろいろな性質を与えられ組み合わされたクォークを、また、粒子の性質を場の理論の対称変換の既約表現によって基礎づけるプログラムの確かさを信じる理由はますます増えている。ある種の相関実験が、アンサンブル表現では表されないような、もつれた統計を生じると信じる理由さえある。その理由はその主張の判定をする科学者の集団のいろいろな重なり合いまた開かれた慣行の中にある。それは良い理由であり、時には、なんであれ確信を支えるために見いだされ得る限りの最良のものである。もちろん、そのような根拠がその主張の真理性を確信するに十分であるとすることは、実在論からは程遠い。

それは、現実の科学の努力から、精密で巧みにつくられた世界の構造の隠された細部を構成するときに、実在論が見いだす輝きも特別の喜びも安らぎも持たない。それでもなお、もっと控えめで地味ではあるが、科学的な確信を合理的な慣行で基礎づける―そしてその確信を科学の言葉で理解する―ことを求める態度は、それ自体、合理的な採用すべき態度と思われる。私はそれを採用し、あなた方にもそうすることを勧める。それは正しくNOA―自然な存在論的態度―である。

と、いうわけなのですが、どうでしょうか。

5. 感想

たしかに、実在するのしないのという議論は、不毛な議論ではあるのでしょう。しかし、実在という概念を外してしまいますと、思考が根無し草になってしまうように思われます。そもそもデカルトのコギト(思う我)にしたところで、確かな実在の証を求めてのことであり、これをあっさり外してしまうのも、私には、どうかと思われます。

ただ、プラグマティズム、という観点から、このような主張は理解できなくもありません。すなわち、形而上学を否定まではしないとしても、形而上学的議論を避けるプラグマティズムの立場からは、実在論に踏み込むことは、危険であると考えることも理解できるのですね。

しかし、物理学を、単なる「合理的な慣行」の上に基礎づける、というのは、少々やりすぎのような感じがいたします。なにぶん、物理学は、法と慣行が支配する証券取引などとは異なり、現実の上にしっかりと位置付けられなければいけませんから。

と、いうわけで私といたしましては、NOAとは別の道を探すことが妥当ではなかろうか、と考えることといたします。Going my way ですね。