数理科学/特集「多値論理」を読む

サイエンス社が出しております雑誌「数理科学」の1980年2月号は「多値論理」を特集しております。多値論理に関する良い解説書が少ない中、この特集号は貴重な一冊と言えそうです。

1. 同書の内容

と、いうわけで、本日はこれを読むことといたしましょう。特集関連の記事は以下のとおりです。

  1. 多値論理とは:細井勉
  2. 多値論理の哲学的展望:石井新
  3. どんな有限多値論理にもあてはまる形式的体系:西村敏男
  4. 4値論理を用いて3値論理の公理をつくること:後藤以紀
  5. 多値論理関数族の完全性:野崎昭弘
  6. 遅れつき論理の完全性:疋田輝雄
  7. 3値算術演算装置の製作:長谷川利治
  8. Fuzzy論理と近似的推論:水木雅晴
  9. 多値論理システムの最近の動向:樋口龍雄

2. 多値論理の歴史

(1) は前振りに相当する記事で、多値論理の歴史を振り返っております。

これによりますと、最初に3値論理を提案したのはポーランドの論理学者、ウカシェヴィッチで、1920年に発表されました「3値論理について」が最初の論文とされております。ここで彼は、真とも偽とも断定できない命題が存在することを、未来の事象を例に説明いたします。

Wikipediaによりますと、ヤン・ウカシェヴィッチは、ポーランド記法の提唱者として、計算機の世界への貢献が大きいのですが、本職は哲学者。アリストテレスがご専門、とのことです。

ウカシェヴィッチと同じ頃、米国のポストが多値論理の概念を得、1921年に一般的なm値論理について論文を発表いたしました。彼は、「真」の否定を「疑わしい」、「疑わしい」の否定を「偽」、「偽」の否定を「真」としているとのこと。これは少々おかしな演算規則であるように、私には思われます。

1931年、ゲーデルの不完全定理が発表されますと、数学的にも「真」とも「偽」とも断定できない命題があることが明らかとなり、米国のクレーニはこれを3値論理で表現する論文を1938年に発表しました。また、ゲーデル自身も1932年に「ゲーデルのn値論理」と呼ばれるようになった多値論理を扱う論文を発表しております。

この記事では、歴史的記述に続き、多値論理に関わる種々の問題を紹介しておりますが、ここでは省略いたします。

3. 多値論理と哲学

(2) も、多値論理を歴史的に概観したもので、こちらは表題からもあきらかなように、哲学との関連で述べております。

この記事によりますと、多値論理に近い考え方は、アリストテレスがすでに述べていた、といたします。特に、未来のことがらに関しては、真とも偽ともいえないことがある、と既に述べていた、とのことです。

まあ、私などは、アリストテレスの師匠の師匠でありますソクラテスの「知らないということを知らなければいけない」などという主張には、既に3値論理的な考え方が含まれていたのではなかろうか、などと思ってしまうのですが。

同様の考え方は、エピクロスも引き継いでいたのですが、ストア派の時代になりますと2値論理が支配的となります。

この記事には、ウカシェヴィッチの業績についても触れておりますが、前記事とだぶりますのでご紹介は省きます。

さて、この記事では、3値論理の第3の状態の哲学的解釈は、困難な問題である、として論を閉じております。

(3)~(6)は論理学的な議論、(7)はハードウエアで構成するという話題、(9)の最近の動向も、ハードがらみの話が中心となっております。(8)は以前もこのブログで扱いましたファジー論理に関する話題ですが、これらに関しては詳細は省略いたします。

4. 神の視座と人の視座

さて、以下、私の考えを述べることといたします。

3値論理の第三の状態を、哲学的にいかに解釈すべきかは困難な問題である、との記事(2)に対しての私の理解は単純でして、神の視座からは2値論理で扱われるが、人(間主観性)の視座からは「不明」を含む3値論理で扱うしかなかろう、というものです。

もしも全てが決定していたとして、その全てを知りえるならば、あらゆる命題は「真」か「偽」かの2つの状態しかとり得ません。しかし、神ならぬ人は全てを知ることができず、人の認識を礎とする世界観においては「不明」という状態も含めて考える必要があると、私は思います。

さらに私は、科学は人の認識の上に構築される、としておりますので、この第3の状態は科学における必須の状態である、ということにもなるわけです。

5. 「不明」が現れるとき

さて、不明が現れるのはどのような場合か、ということを考えますとき、これにはいくつかのレベルがあるように私には思われます。

第一に、本質的に不明である、という場合でして、その一つに、不確定性理論による量子力学的な認識の限界があります。また、未来の事象は、天体の運動のように、あるものは予想可能ですが、多くの場合、未来の事象を観測できないが故の不確実性があります。

第二に、技術的な認識不可能性という問題がありまして、サイコロの出目や、ルーレットの玉がどこで止まるか、といった問題のように、運動を完全に記述していれば知ることができるといいましても、現実問題として不可能である場合には、その結果は「不明」としかいいようがありません。また、人の考えることも、ニューロンの作用で説明することはできるのですが、現実的には、目前の人が考えていることを、少なくともニューロンの作用としては、知ることはできません。

経済の動きのように、膨大な要素が関連している事象に関しても、人はその全貌を把握することができず、ある命題が成立しているか否かを答えられないケースがあるでしょう。同様な例として、気象の問題や多数の星が相互作用する運動の解析などをあげることもできます。

第三には、手続き上の不可知性ともいうべきものがありまして、切られたカードが何であるか、それを開けない、という前提がある場合には知ることができません。シュレディンガーの猫のケースは、一見、不確定性理論に基づく「不明」のようにみえるのですが、実は「箱を開けない」という手続き上の不可知性によるのではないか、と私は考えております。

これに類似した状況といたしましては、まだ誰もやっていないからわからない、という状況がありまして、他の天体の表面の状態のように、それを知ることができない理由は、技術的理由もあるのでしょうが、予算配分などの社会的要因もあり、この場合には手続き上の要因ともいえそうです。

第四には、知り得るための材料は全て揃っているのだが、ただ人がそれに気付いていないだけ、という、推理小説におけます「読者への挑戦」的状況もありえます。

これらのどこまでを「不明」という状態とみなすかは議論があると思いますが、実務への応用、ということを考えますとき、少なくとも第四を除いては、「不明」という状態を与える要因と考えて差し支えないのではないかと思います。

たとえそれが、カードを開かない、という約束事によってのみ知ることができないのであっても、その約束を互いに守っている状況下では、この約束事を本質的な制約と考えるしかないのですね。ずるを認めては、シュレディンガーの猫の実験も成り立たなくなってしまいます。

6. 二値論理が支配的であるのはなぜ

まあ、それはともかく、2値論理が今日支配的となっております理由は、まず第一に、ストア派の影響が今日なお尾を引いていること、第二に神を無視できなかった、という事情があるのではないか、との印象を、私は同書から受けております。

しかし、よく考えてみますと、「猫の生死が重なり合った状態である」というコペンハーゲン解釈にしても、「猫が生きている世界と死んでいる世界に分裂した」という多世界解釈にいたしましても、こんな説明をもって2値論理が守られていると主張いたしますことは、牽強付会に過ぎるような気がいたします。

このようなケースこそ、まさに真偽の第3の状態をあてはめるにふさわしい、と私は思うのですね。このためにも、「不明」という論理値を含めて科学哲学なり論理学なりを再構築する必要があるのではないか、と考える次第です。

先日のブログでもご紹介いたしました、量子力学に対するアインシュタインの異議申し立ては、「人と無縁の自然を叙述する」という物理学の基礎を措定したうえで量子力学を疑っております。この主張自体は、非常に納得できるものです。しかし、アインシュタインが不完全と主張いたします量子力学の正当性を、今日否定することは、まず不可能でしょう。

そうなりますと、物理学の基礎をそのままおいて、量子力学も認めること、すなわち、コペンハーゲン解釈なり、多世界解釈なりを受け入れる、という道が一つあるのですが、このような解釈を受け入れると、論理の世界がむちゃくちゃになってしまう、と私は思うのですね。これはすなわち、アインシュタインの主張にも一理ある、と考える所以であるわけです。

量子力学を支持する科学者も、実は内心、そう思っているのではないか、という気がいたしまして、量子力学の専門家たち、苦しい解釈を続けている、というのが本音ではなかろうか、と私は思う次第です。で、正直に「unknown」と吐いてしまえば楽になるのになあ、というのが私の感想なのですね。

7. 間違いはどこにあったか

結局のところ、量子力学が正しいことは当然として、アインシュタインの推論もまた正しかった、と私は思います。で、間違っているのはその前提であった、ということなのですね。

つまりは、「人と無縁の自然叙述」を物理学の基礎としたことが間違っていたわけで、この部分におきましては、量子力学の研究者たちもアインシュタインも、共に同じように間違えておりましたので、この論争は痛み分け、が私の結論となります。

科学が、それを研究する人を除外して論理体系を構成する、ということ自体は間違っておりません。つまり「人と無縁の自然を叙述する」というところはまったく正しいと思います。しかし、その科学を研究するという行為、世界を叙述するという行為自体は、神ならぬ人間が行う、というのが現実の姿です。「自然を人と無縁に叙述する」ということはありえないのですね。

この二つをごっちゃにいたしました結果、すなわち「人と無縁の自然人と無縁に叙述する」といたしますと、「神の視座で自然界を叙述する」しかありません。しかし、こんなことは所詮人間には無理な話ですし、かりに神が自然界を叙述してくださったところで、どのようにして人はその内容を知り得るのでしょうか?

実際のところは、自然界を叙述しているのは人間に他なりません。「人と無縁の自然を人が叙述」しているのですね。そして、有限の能力しかもたない人による叙述であれば、当然、間違いもあれば、判らないこともあります。開けていない箱の中の猫の状態など、まさに「unknown」というしかないのではなかろうか、と私は思う次第です。

この問題が混迷を深めた理由の一つは、西欧社会における神の存在、であったのかも知れません。科学者たち、建前上は否定しております神や霊魂の存在を、心の奥底では信じ続けていたのかも知れませんね。