小林道夫著「科学哲学」を読む

このところ科学哲学づいているこのブログですが、本日は小林道夫著「科学哲学」を読むことといたしましょう。

1. 実在と不変量

「哲学教科書シリーズ」の一冊として発刊されましたこの本、教科書の例に洩れず、あまり面白くない記述が多いのですが「科学的実在論」の部分は、私の最近の興味にも合致しております。本日はこの部分を中心にご紹介することといたしましょう。

著者の小林氏、「科学的実在論」を次のように定義いたします。

「実在」ということの基本条件とは、われわれの主観的観点から独立で、それに依存しないということであって、物理学においては不変量や不変式というものがその条件を満足しているのである。そして、前述のように、古典力学や相対論や量子力学という物理体系においてはそのような不変量や不変式が指示されてあるのである。

ここで「不変量」といいますのは座標系に独立な量であって、エネルギーや運動量などの保存される量や4元距離などがその例としてあげられています。

確かに、座標系は人間が空間に勝手に付けました目盛りでして、原点にせよ方向にせよ任意に取ることができます。また、直交座標系以外に、極座標系などを選ぶことができまして、座標系に依存する量、たとえば「幅」や「奥行き」などは、見る人によってその定義が変わってしまいます。

2. 科学的実在論は形而上学的実在論

さらに著者は次のように述べます。

理論的存在の実在性というのは、それ自身が直接的に観測可能か否かということによってではなく、それによって物理的対象の様々な属性を統一的に説明できるかどうかということ、また、そこから対象についての特定可能な知識が引き出しうるかどうかということ。さらには、それによって対象の因果的継起が予測でき、それを実際に実験室や物理的世界において引き起こしうるかどうかということにかかる。

なるほど、この説明は非常にわかりやすいものです。もちろん、直接観察可能な物体は、観察されるという結果を説明するために実在すると考えるべきでしょうし、電子などの、直接観察することができないものについても、これが引き起こす種々の現象から、実在するとみなすことができる、というわけですね。

次に、「科学的実在論と形而上学的実在論」という節において、以下の疑問を提示します。

科学的実在論を認めて、現在の最良の物理理論が物理的世界についてもっとも客観的で実在的な知識を与えるとしても、それはあくまで物理的世界についての現在の物理理論によって表現された世界であり、文字通りに理論から独立の物理的世界についての知識ではないのではないか

この疑問を私なりに言い直しますと、「科学的実在論は、人間が精神の中に作り出した物理理論によって実在するとされるものを扱っており、人と独立した事物(本来の意味での実在)を扱ってはいないのではないか」という疑問です。

この疑問に対し、著者は次のように述べます。

形而上学的実在論というのは、われわれの認識能力とは独立に、既存の物理理論によっては知られていないような物理的世界の構造が存在するとする立場であるから、そのような未知の物理的世界の構造を求めることなく、現在の物理理論が最終的なものであるとするものには受け入れる必要はない。しかし、現在の物理理論をなおも修正と反証の余地のある暫定的なものとみなしてさらに探求を続ける物理学者は、現在はわれわれに知られていない物理的構造を内蔵した物理的世界が存在すると認めていることになるのであるから、彼は形而上学的実在論を科学的探究の上での信念として容認しているということになる。

つまり、科学的実在論は、物理学の理論によって存在すると考えられているものを実在するとするのですが、それが全てであるというわけではなく、物理学の理論からは未知の世界もあるという前提のもとで研究が行われており、形而上学的実在論、すなわち人間とは独立に存在する「実在」を認めていることに他ならない、というわけです。

3. カントの実在論

ここで、ニュートン物理学が真実であると考えられていた時代の思想家、カントの観念論が紹介されます。確かにカントは、概念は人間精神の中にのみ存在するとしているのですが、その観念を生み出す原因としての外界の事物の実在を認めており、著者の以下の記述は少々修正が必要ではないか、と思われます。

カントの理解では、ニュートン力学は反証されようのない最終的なものなのである。しかしそうであるとするなら、この物理的世界は人間にとっては不変の共通の世界であっても、それはあくまでニュートン力学という理論の枠組みでのみ知られる世界であり、この枠組みを越えた世界そのもの(「物自体」の世界)は人間には知りえないということになる。カントの立場では、物理学といっても、一定不変の概念的枠組みを前提とした人間の認識に従属したものであって、その限り形而上学的実在論は科学的見地としては受け入れることのできないものなのである。このように、ある物理理論を最終的なものであるとみなす見地からすれば形而上学的実在論は排除される。

これは少々カントには厳しすぎる物言いでありまして、ニュートン力学が誕生して20世紀が始まりますまでの間、ニュートン力学は最終的な物理理論と考えられていた、という背景に配慮しなければいけません。

カントの観念論は、「外界自体を人は知ることができず、人間精神の内部に作り出された観念こそが、われわれが思考の対象とするものである」といたします。この観念の中には、むろんのこと、ニュートン力学の物理的世界が含まれていることはいうまでもありません。そして、カントが生きた時代の常識として、ニュートン力学が物理理論の全てであると考えられたこともいたし方のないことであると思います。

ニュートン力学が物理学の最終理論であるか否かという点を除外いたしますと、カントの主張はきわめて理にかなっているように思われます。

小林氏の主張する、「われわれの認識能力とは独立に、既存の物理理論によっては知られていないような物理的世界の構造が存在するとする」形而上学的実在論を受け入れますと、「物理理論の枠組みを越えた世界そのもの(「物自体」の世界)は人間には知りえないということになる」わけで、これはカントの主張と同じことになります。

4. 概念を見出す原因としての実在

人とは独立に存在する外界は、われわれが概念を見出す源(原因)であり、われわれが認識するのはその結果得られた概念である、というカントの考え方は当然ともいえるでしょう。なにぶん、われわれが知りえるのは知りえた結果であり、その原因を直接知ることはできません。

しかしながら、「われわれが概念を見いだす原因」を「概念そのものである」と考えることも妥当である、と私は考えております。たとえば、リンゴという概念を見いだす原因が眼前に存在する場合、「眼前にリンゴが存在する」という言い方をすることは何らおかしな話ではありません。

これを「眼前に存在するのは私がリンゴという概念を見いだす原因であって、リンゴという概念そのもの、は私の頭の中に存在するのだ」などということは、確かに正確なものの言い方であるのかもしれませんが、こんなことを言い出したら会話が先に進みません。

5. 実在とは

さて、「実在」を「人とは無関係に、それ自体で存在するもの」と定義いたしますと、「概念」は実在の定義から外れます。なにぶん、概念は人間精神が生み出すものですから。人と無関係に実在するものは、人が概念を生み出す原因である外界の事物である、ということになります。

結局、「実在とは、人とは無関係にそれ自体で存在するものであるが、それが人に認識されたとき概念を生み出す原因となる。人は実在を、それが生み出す概念として理解する」という表現が、人と実在との係わり合いをもっとも正確に表しているのでしょう。

物理理論は、当然のことながら、人の精神的働きの産物であり、概念世界に含まれる存在です。しかし、人がそのような概念を獲得するに至る原因は外界にあり、実在の上に物理的概念なり物理理論は構築されております。したがって、物理的概念なり理論なりは「実在する」といえる、というのが私の実在論の結論です。