木田元著「現象学」を読む

本日は、1970年の第1刷発行と非常に古い本ですが、木田元氏の「現象学」を読むことといたしましょう。

1970年といいますと学生運動花盛りの頃でして、サルトルが思想界のリーダーとして燦然と輝いていた時代です。で、サルトルの思想も、実は、現象学がそのベースにありまして、そういう意味からも現象学が注目されていたのですね。

ただ、今日から考えますと、当時のサルトルの思想は、どちらかといえば反知性。分析的知性を鋭く批判した「弁証法的理性批判」などという本も書かれておりましたし、「実存は本質に先立つ」というのがサルトルの唱えました「実存主義」のキーワードでして、思考の結果たる本質ではなく、あるがままの現実、すなわち実存を重視すべきである、というのがサルトルの基本思想です。

一方、現象学の祖ともいうべきフッサールは論理を重視する知性の人でして、揺るぎのない学の礎を築かんとした人ですから、サルトルとは方向性が相当に違います。

もちろん、フッサールは外界の実在を捨象することによって、自然主義的実在論に立脚する科学とは対照的位置にあります「純粋心理学」、すなわち現象学を打ち立てた方ですので、そういう意味では科学、すなわち分析的知性の対極にある、ともいえなくはありません。

それに、後期のフッサールが重視いたしました「生活世界」つまりは、すべての学に先立って人がその中に生きている世界を哲学の出発点とする考え方は、確かに「実存は本質に先立つ」というスローガンと軌を一にしております。

ふうむ、そういうことですか。とまあ、そんなことがわかってまいりますのが、同書の特徴といえるでしょう。1970年代の思想的状況というものが伝わってくるような書物ではありました。

さて、同書の面白そうなところをみていきましょう。まず、「自然主義的態度」と「自然的態度」です。同書54ページ以下には次のように書かれています。

第二巻においてはかれは、ここで無反省に混同されていた「自然的態度」と、「自然主義的態度」とを明確に区別し、還元において超えられるべきであったのは、実は自然科学のように自然を客体化して観る「自然主義的態度」だったのだと考えるようになる。……こうなってみると現象学的還元は、もはや客体的なものの意味の生成を主体の構成作業に遡って明らかにするといった認識論的操作ではなく、むしろいっさいの事象を主体-客体の相関関係においてみようとする客体化的な意識の態度一般を排除するものと考えられることになり、そしてこの還元によって、本来の自然的態度こそがこの主体-客体関係を基礎づけながらそれによって覆われていた根源的なものとして姿をあらわしてくるのである。……自然的態度はその意味では他の態度と並ぶ一つの態度ではないのであって、むしろ自然科学の基礎となる自然主義的態度や精神科学の基礎となる人格主義的態度といったいっさいの態度に先立っていて、それらを可能ならしめるものと見るべきなのである。

この部分の内容には、重要な点が二つ含まれています。

まず第一に、現象学的還元において棚上げ(エポケー)すべきは「自然主義的態度」すなわち、認識対象を客体化する意識の働きである、という点です。

第二に、人が元来持っている世界認識のあり方、すなわち「自然的態度」は、すべての哲学の前提となるべきものである、ということが述べられています。

人は外界の事物を見るとき、それぞれの物体を、個別の存在として、混在して知覚された世界から区分して把握しています。たとえば、りんごがある、などと考えるわけですね。これは自然な認識のあり方ですが、さらに科学的な立場では、それを分類し、定義し、さまざまな知識に関連づけて把握いたします。これがすなわち客体化であり、自然主義的態度というわけです。

自然主義的態度を棚上げする一方で、自然的態度を哲学の基礎にすえる、という考え方は、確かにサルトルの思想にストレートに結びつきそうです。しかし、この自然的態度を無批判に肯定して良いものかどうか、これについては検討が必要でしょう。

確かに、日常的な生活世界にあっては、科学が扱うような一般概念としての世界把握ではなく、このもの、あのものといった、個別概念が幅を利かせる世界です。しかし個別概念が成り立つためには、テンプレートとしての一般概念があってこそです。つまり、眼前の物体をりんごと把握するためには、りんご一般に関する知識を持っていることが前提となります。

そうなりますと、自然的態度と自然主義的態度を厳然と区別することは困難であり、生活世界における認識のあり方にも、批判的な分析が必要になるのではないか、と私は思います。

つまるところ、自然主義的態度は、眼前の物体にさまざまな概念を貼り付け、眼前の物体はこれら概念が付属したものとして実在するのだ、と考えます。自然的態度におきましても、人は眼前の物体を何らかの概念にあてはめて把握しており、この状況は、程度の差こそあれ、基本的には変らない、と思うのですね。

私が思いますには、概念は人の精神の中にある一方で、物体は人間とは独立に実在し、人の精神に作用して、りんごならりんごという概念を生じる原因となる存在です。この事情は、科学の世界におきましても、生活世界におきましても、なんら変らない、と私は考えております。

つまり、自然主義的態度も、自然的態度も、本来人間とは無縁の存在であったはずの実在に、人間精神内部の存在である概念を貼り付けており、いずれも正しい世界認識とはいえない、というのが私の主張です。

もっとも、生活世界におきましては厳密な哲学的議論はどうでも良く、「りんごという概念を人の精神に呼び起こす外界の原因」を「りんご」であると認識したところで、なんら困ったことにはならない一方、「厳密な学としての科学の基礎」を定める際には、その違いは明確に意識しておく必要がある、という違いはあるのですが、、、


さて、まだ制限までにはかなりの文字数が書けますので、このような考え方をする、もう一つの根拠といいますか、アプローチについて書いておこうと思います。

それは、情報、という視点でして、情報が何に固定されているのか、どのように伝達されるのか、何が情報を処理しているのか、という点から考察することで、このあたりの事情がもう少し明確になる、と考えております。

まず、人の精神的働きが脳にありますニューロンによる情報処理過程であることは衆目の一致するところでしょう。で、これがなにかを感ずる、ということは、どこからか情報を受けている、ということです。これらの情報の一部は、ニューラルネットワークの内部で発生しているのかもしれませんが、外部から受ける情報もある、ということは間違いのないところでしょう。

すなわち、人間精神の外部にも情報の発信源がある、ということですね。これを「外界の実在」と称しております。つまりは、眼前に存在するりんごが、人の知覚を経由してニューロンに情報を与えている、というわけです。

りんごという実在に含まれる情報量は、実は、膨大なものでして、この程度のスケールのもので10の25乗ほどの原子が含まれており、その数はもとより、種類、位置関係はそれぞれのりんご固有の情報を表します。

人間がこれから得ている情報は、表面を反射する光のごく一部の成分であり、その解像度も極めて限定的です。さらに、視覚情報はニューラルネットワークの低レベルの処理を受けた後に意識に上がっております。

まあ、そういうわけで、カントもフッサールも、人は外界の実在(の真の姿)を知りえない、とするのですが、ここから受けている情報がゼロである、というわけではないのですね。

外界の実在は、それ自体が情報を保持するとともに、変貌させていきます。りんごであれば、内部の細胞は何らかの活動をしており、表面からはエチレンガスを放出しており、その裏には化学反応が継続して起こっています。これら情報の変質は、われわれが情報処理と呼んでいるものとなんら異なるものではありません。

人は、外界の事物が行う情報処理を利用することもありまして、一般に「実験」と呼ばれるものは、外界の事物が起こす情報処理を観察するもの。「模型実験」などは、計算機シミュレーションと対になるもので、計算機で行う演算処理を実在の事物に行わしめている、とみなすこともできるのですね。

人の脳と実在の事物に加えて、もう一つ、情報を保持し、処理する主体が「社会」であり、これが客観を形成するのだ、ということはこのブログでも再三指摘いたしました。社会には社会の情報処理システムがあり、その内部には人の脳も含まれているのですね。また、人の脳と言いますものは、実は、実在の事物の情報処理システムの上に成り立っております。

これら三つのレベルの情報処理システムは、それぞれが他を構成する一部として機能し、また、相互に情報をやり取りしている、というわけです。これが、実在と、主観と、客観(間主観性の上の客観という意味で)に他ならない、というわけです。

なるほど、情報という切り口で解析いたしますと、この哲学の難問(アポリア)も、なんとなく筋道が見えてくるような気がいたしますね。