科学哲学学会で発表しました

今週は学会発表のためこのブログも変則的となっていたのですが、昨日開催の科学哲学会で、無事発表いたしまして、明日よりは通常モードに戻ることとなりそうです。

発表内容につきましては、トップページの最上段オリジナル文書のところにあります「観測問題解決のための修正自然主義の提案」からリンクを張っておきました。図をパワーポイントで投影しながら、ほぼ文章にしたがって発表いたしました。講演と同じ文体としましたので、会場の雰囲気を味わっていただけるかと思います。

口頭発表の良いところは質疑応答でして、この学会の人々の興味のあるところ、極端な言い方をすれば、文化常識といったものを知るヒントになります。

で、出ました質問は、まず、「群知能は何故あるといえるのか」というもので、これに関する私の立場は、そういう報告がなされている、という以上のことは言えません。まあ、そのようにお答えしたのですが、少々納得のいかない雰囲気。これに関しては、関連する文献をあたっていただくしかありません。

次の質問は、観測問題の捉え方に関するもので、この発表内容に従えば、そもそも観測問題は存在しないのではないか、というもの。これはある意味正しい指摘でして、このような捉え方をすれば観測問題は消失する、というのが私の指摘ですので、その通りです、としか答えようがありません。

ただ、シュレディンガーの猫を、積まれたマージャンパイと同じであるとする私の主張には、まったくご賛同いただけません。これに対しまして、量子力学的洗牌装置で積んだ牌と通常の方式で洗牌して積まれた牌に物理的な差異は認められないのではないか、とお答えしたのですが、拒絶反応を受けてしまい、レフェリーストップとあいなりました。

懇親会では座長の方といろいろとお話をしたのですが、なかなか具体的な指摘にはつながりません。私の印象といたしましては、強い拒絶反応、といったところで、この文化を変えることは相当に難物である、との印象もあります。

今回の発表に関しては、私の側にもいろいろと反省点がありまして、まあ、これは発表してみてわかった、ということでもあるのですが、まずは、現象学が今日の思想界の常識である、というのはまったくの誤解。これは、現象学者の言い分を真に受けた私が馬鹿でした。この手の話をするならば、まずは哲学的なベースをきちんと説明しなくちゃいけません。

もうひとつは、ネットの世界でごくあたりまえに語られていることは科学哲学会の常識ではない、ということでして、群知能などに関しても、もう少し詳しい話が必要であったように思います。ただ、限られた時間の中でこれだけのことを話そうといたしますと、端折らなければならないことも多く、どこまで説明できるかは、少々疑問ではあります。

その他、シュレディンガーの猫を特別視する考え方が根強いことに驚かされます。これは、長年の難問(アポリア)であって、そうそう簡単に説明がつくはずはない、との思いがこの世界の人々の心を支配しているのではないか、と思われまして、ここから突き崩す手もありか、とも思われる次第です。

シュレディンガーの猫の実験といいますのは、猫を小箱に入れておき、放射性物質から出る放射線がガイガーカウンターを鳴らしたとき猫を殺す仕掛けにしておく。カウンターを鳴らす確率が50%であることはわかっているが箱の中が見えないとき、中の猫はどうなっているのか、という実験です。

現在主流の解釈は、「猫は生死重なり合いの状態にある」というもので、単に「確率50%で生きているか死んでいるかのいずれかである」という状態とは異なる、と考える人が多い様子です。まあ、それに気づいたのが今回の成果でもありました。

この実験において、放射性物質とガイガーカウンターは乱数発生器として機能しています。したがって、量子力学的な乱数発生器と、古典的な乱数発生器の相違を調べることにより上の考え方が正しいかどうかを確かめることができます。

猫はその乱数を記録するものとして機能しているのですが、猫の生死を記録に使うのは少々問題です。そこで、他の物体、たとえば二種類のカード(たとえばジョーカーとハートのエース)や二種類のマージャン牌(緑発か紅中)を使用し、乱数の結果に応じていずれかひとつを裏返しで出すようにすれば良いでしょう。

で、量子力学的乱数発生器を使用した場合と、古典的乱数発生器を使用した場合に、出てきたカードなり牌なりの物理的状態に差があるかどうかを検定すればよい、というわけです。もちろん私の予想は、両者の間に差はなく、オッカムの剃刀により、両者は同じ状態である、すなわち量子力学的乱数発生器と古典的乱数発生器の間に差はない、との結論が得られる、というものです。

その他にも、この先の作戦は、いろいろとありそうです。壁は相当に堅そうなのですが、、、

もうひとつのアプローチは、情報、という視点でして、情報が何に固定されており、何が情報を処理しているか、という視点です。

主観、というシステムレベルを考えた場合、情報を処理しているのは脳のニューラルネットワークであり、情報はさまざまな脳内のメモリーに記憶されています。これに、個人的なメモやパソコン、電卓などを追加することもできるでしょう。

客観というシステムレベルでは、情報を処理しているのは、コミュニケーションチャネルで結ばれた多くの人々で、情報は書物などに蓄積されます。

外界の実在というレベルは、情報という視点から見ることは多少の困難があるのですが、宇宙に存在するすべての粒子の位置や速度、つまりはある時間で切ったときの初期条件と呼ばれるものや、スピンなどの状態などが情報に相当し、これは物自体に固定されていると考えることができます。

これらのもの自体に固定された情報は刻一刻と変化していますので、情報処理、少なくとも情報の変形が行われていることは確かであり、これは、物理法則がインプリメントされた「もの自体」が情報処理を行っている、と考えるべきでしょう。

主観も客観も、それぞれのシステムを構成しているのは外界の実在です。これらが利用しているのは、システムを構成する外界の実在がとりえる自由度のごく一部に過ぎません。といいますのは、ニューロンの大きさはミクロンのオーダーである一方、原子のサイズはその1/10,000のサブナノオーダーで、三次元を構成する場合はその3乗、1/1兆ほどの隔たりがあるのですね。

さらに複雑な状況として、客観を構成する要素として主観があり、逆に、主観の中には客観の不完全なコピーが存在します。そして、主観は外界の実在を認識し、外界の不完全なコピーも主観の中に持っており、これに基づいて、自然科学を主観中の客観の中に生み出して、これを他者に伝達することにより共有された主観、すなわち(間主観性という意味での)客観を形成している、というメカニズムが存在するわけです。

なかなかに複雑な世界ですが、情報の流れを追うことで、この世界は、見通しよく把握することができそうです。ま、これはもう少し先の課題、ということにしておきましょう。