カントの哲学と、その限界?

2週間ほど前から、インド哲学をいったんおいて、カントのプロレゴーメナを再読しております。

インド哲学というもの、確かに初期のインド哲学は奥深い思想なのですが、これが徐々に確立してまいりますと、いわゆる教団が形成されます。そうなりますと、人々は教団経営ということも考えざるを得ず、経営上の利害により思想そのものがゆがめられている、という印象を受けるのですね。

で、シュレディンガーが注目したのはヴェーダーンタの哲学。これを深めるのは大変、という思いもある一方で、カントやフッサールの哲学に、実は量子論の難問を解決する糸口があったのではなかろうか、との思いが強まった、というわけで、カントに戻ってきたわけです。

なにぶん、カントやフッサールの思想は、外界の実在とこれに対する人間の知識をきちんと分けて扱います。これがきちんとなされるならば、私が以前ご指摘したとおり、量子力学における観測問題という難問はあっさりと解決され、ボーアとアインシュタインの対立も解消されるのですね。

で、不思議なことは、ヨーロッパ知性の基礎でありますカントの思想が物理学者の常識とはなっていないことでして、これは、時空に対する基礎的な常識を哲学者が押さえていないことと並んで、現在の知性の七不思議を構成するのではなかろうか、などと思っております。あ、七不思議の残りの五つについては、とりあえずおいておきます。

さてプロレゴーメナですが、ある程度読み進みますと、同書の内容が「純粋理性批判」への批判に対する反論となってまいりまして、元本であります純粋理性批判に目を通しておかなければ何の事やらわからなくなります。

こういうのって、「プロレゴーメナ」、すなわち「序説」という表題を少々逸脱しているような気がするのですが、文句をいっても始まりません。プロレゴーメナを理解するために純粋理性批判を読む、すなわち序説を理解するために本文を読むという、どう考えても本末転倒したような作業を開始した次第です。

で、この双方を読みますと、カントの言いたいことがなんとなく読めてまいります。と、いいましても、まだまだ読み始めたばかりでして、プロレゴーメナを最初から40%ほど、文庫本での3巻本となっております純粋理性批判にいたっては、まだ上巻の半分ほど、つまり1/6ほどしか読んでいない、ということをあらかじめお断りしておきます。(2016.6.11追記:この時点では岩波文庫版を読んでおります。後に、光文社から新訳が出ておりますが、岩波版で「悟性」と訳された部分が光文社版では「知性」と訳されておりますのでご注意ください。)

で、何がわかってきたか、といいますと、カントは「理性」と「悟性」を区別して扱っておりまして、「理性」は意識された論理的推論にかかわる人の能力である一方、「悟性」は、言うなれば無意識的、感情的な人間精神の働きで、五感が捉えたものを「概念」として理解する能力である、というのですね。

そして、カントは悟性の働きを重視するのですが、これは、慧眼であると同時に、問題があるようにも私には思われます。だからどうすればよいか、という点にまでは思い至らないのですが、本日はこの点について議論してみたいと思います。

まず、無意識的、感性的な精神の働きというものは、これを肯定的に捉えることができるのであれば、非常に幸せな話であるのですが、必ずしも肯定的に考えてはならない、ということがこれまでの歴史の教訓である、と私は理解しております。といいますか、そういう信念を持っているのですね。

なんとなれば、人は、生まれ育った環境の中で、その社会特有の無意識的、感性的な精神活動の型を作り上げるものであって、それが今日の世界では、すべての人々が同じ型とはなっていない、という問題があります。

これは、大は文明や民族、国家といった集団間に、あるいは、村落的共同体や個々の企業や役所、大学などの研究室などの間でも、ものの考え方に差があり、他の集団に属する人々とは、文化・常識を異にする、ということがままありまして、それが種々の問題を引き起こしている、という事情があります。

カントの場合、「ア・プリオリな認識」というものを、ある種絶対的なものと位置付けているのですが、それは実は人がたまたまその社会に生まれ育ったからそう考えているのであって、別の社会に育てば、また違った認識をもつ、という点にまで思い至っていないのではないか、との印象を受けます。

まあ、まだ全体の1/6を読んだ段階でそんなことをいうのは、もしかするととんでもない間違いであるのかもしれませんが、少なくとも、ここまで読んで受ける印象はそうである、というわけなのですね。

こうなりますと、俄然魅力的に見えてまいりますのがデカルトの懐疑論です。カントがその生涯のほとんどを東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で過ごしたのに対し、デカルトは旅の人でした。そして、異なる風習の人々の間で、自らの行為を笑われる、といった経験をしてきたのですね。

つまり、デカルトには、異質な他者とのふれあいがあったのに対し、カントは同質な人々(もちろんカントに対して批判的な人々もいたのですが、精神的、文化的構造は同一の人々)に囲まれてその生涯を送ったわけで、自らが生まれ育ち、受けた教育の結果であるところの自分自身のものの考え方、感性には、何の疑問ももたなかったのではないか、と私には思われます。

だから、カントが感性・悟性をアプリオリな認識能力の源とし、これを疑わないのに対し、デカルトはこれらのすべてを疑うところからスタートした、というわけですね。しかし、これらを疑う哲学は、その上に構造物を作りにくい、という問題があり、カントが打ち立てた荘厳な形而上学に対して、デカルトのそれは、なんとも風通しのよい、あばら家のごとき存在であったわけです。

一方、デカルトのコギトの上に新たな形而上学を打ち立てんといたしましたフッサールは、カントに言わせれば理性でありますところの、自然主義的態度を批判するのですが、最後にたどり着く「生活世界における自然的態度」とは、結局のところカントの感性・悟性とそれほど異なるものではなく、カントの哲学に戻ってしまっているようにすら、私には思えます。

しかしそれでは、人が生まれ育つ過程で得た知識や常識やものの考え方というものをすべて投げ捨てたところに何ができるか、ということを考えますと、これはなかなか難しい。デカルトにしたところで、つまるところは、言語を用いて哲学的問いかけをしているわけで、実のところ、すべてを疑って投げ捨てたわけではないのですね。

結局のところ、カントもいうところの「普遍的妥当性」すなわち、誰にとってもそれがもっともである、と信じられる知識をベースに議論しなくてはならない、ということであって、それが狭い同質社会内部での普遍性にとどまらず、異質な他者にも受け入れ可能な議論をしなければならない、ということではないか、というのが私が現在想定している「落としどころ」であるわけです。

で、こうした「普遍的妥当性」が成り立っているのは自然科学の分野であり、自然科学をベースとした哲学を構築することこそ、今日の人類に求められているのではなかろうか、と考える次第です。

ま、そのためのひとつのアプローチが、「情報」という視点から、実在・主観・客観に対して考察を加えることではないか、などということも考えているのですが、、、

自然科学的見地からカントの哲学で疑問を感じます点は、空間を物体とは異なる存在のありようをしている、と考えているところです。

確かに、物体が実在する、といえるのに対し、空間は無である、との印象をわれわれに与えるのですが、物質の経験的概念はこれにもとづくなどとカントがいっております「不可入性」、つまりは物体のありますところに他の物体が入り込めない、という性質は、(空間の)「可入性」ともいうべき性質が前提となります。

つまり、物があるところに他の物が置けない、という言い方は、逆の言い方をすれば、物体がない部分(つまりは空間)には他の物体を置くことができる、という性質を認めるからこそ意味を持ち、その前提として空間の存在を認めないわけにはいかないであろう、と私は考えるのですね。

これを、荘子に言わせれば「無用の用」ということになるでしょう。つまり、車輪の真中には孔があるからシャフトを通すことができる。孔という「無」の部分も、ちゃんと役に立っている、というわけです。

普通に考えても、空箱の内部には空洞があるから物を入れることができるわけであって、そこには確かに物が置かれていない空間が実在する、と考えるしかないでしょう。

また、時間、というのもまた難しい概念でして、4元時空、という観点からは、時間は空間と同一に扱われてしかるべき要素です。そういえば、東洋の思想は最初から世界を「時空」と捉えておりまして、世界の「世」が時間、「界」が空間に相当するとか。ま、これは余計な話かもしれませんが、、、

さて、時間の何が難しいかといいますと、われわれの精神が時間の中に閉じ込められているからでして、そもそも精神活動というものは、脳における化学変化であって、4元時空の特定時間での切断面に「今」という感覚があります。人の意識は、4元時空の中を、未来に向かって時速1時間で移動しており、人間の精神は時間に対して特殊な見方をせざるを得ないのが実情です。

しかし、人の意識が特定の時間平面に束縛されているからといって、人の想像力は、その呪縛を離れたところから自らを省みることも可能です。外界の実在を人は知りえない、とカントがいうとき、カントは人の知りえない外界の実在について語っているわけですが、そうすること自体は何ら矛盾したことではないのですね。

結局のところ、自然学(フィジックス)が人の自然認識の内容そのものであり、人の自然認識の能力に制約を受けるのに対しまして、形而上学(メタフィジックス)という学問は、人がいかに自然を認識するか、というところを議論する学問であって、人の認識能力の限界や、人が認識できない部分の構造を議論することもできる、という自由度の違いがあると私は考えております。

この二つの論理の地平をきちんと分離して議論することが、哲学研究の第一歩ではないか、というのが、まだまだ1/6しか読んでおりませんが「純粋理性批判」を読んで私が受けた印象です。


時間の問題に関しましてはこちらのページにまとめを行いました。