入不二基義著「哲学の誤読」を読む

本日読みます一冊は、入不二基義氏の書かれました「哲学の誤読」です。

1. 概要

同書は大学入試の国語問題に取り上げられました哲学者の文章を題材に、どのように哲学的な文章を読むべきかを論じたもので、受験生の方、特に国語が今一歩という方には、直前対策になる、かも知れない一冊です。

ただし、同書の著者は、これらの文章を相当に高度な読み方をしておりますので、下手をすれば逆効果、ということもあるかもしれません。受験生の方は、自己責任で読まれるようにお願いいたします。

ま、このブログを読んでおられる受験生であれば、多分、大丈夫、だとは思いますが、、、

採用されております問題は、北海道大学2000年の入試問題から、野矢茂樹氏の「他者という謎」、東京大学2001年の入試問題から、永井均の「解釈学・系譜学・考古学」、早稲田大学2005年の入試問題から中島義道氏の「幻想としての未来」、そして名古屋大学1997年の入試問題から大森荘蔵氏の「『後の祭り』を祈る」の4つです。

以下、簡単に内容をご紹介いたしますが、あまり正確なものではない、ということをあらかじめお断りしておきます。

2. 扱われている話題

最初の「他者という謎」は、他人の頭痛をわかることができるかどうかという問題を扱うもので、多少は解かったつもりになるのだが、結局のところ、他者の心の中など解からない、というお話。

第二の「解釈学・系譜学・考古学」は、チルチルミチルの童話から、捜し求めていた青い鳥は自分の家にあったのだ、という事実はいつ発生したのかを問います。青い鳥を捜し求めて出かける前からだったのか(解釈学)、帰ってきた時点でそういう過去が作り出されたのか(系譜学)、あるいは、青い鳥を探しに出かける以前は、幸せの青い鳥という概念自体がそもそもなかった(考古学)のか、という三つの視点が紹介されるのですね。

第三の「幻想としての未来」は、われわれが考えている未来とは、現在から一定の時間がした時点のことなのかどうか、という疑問を提示します。で、未来のことなど知りようもなく、未来という名で考えているのは、実は、現在のことである、といった主張をいたします。

第四の「『後の祭り』を祈る」は、成人のための通過儀礼としてアフリカで行われているライオン狩りがうまくいくように酋長が祈りの踊りを踊るのだが、ライオン狩りが終わって青年たちが帰路についているときも踊りつづける行為の意味を問います。

で、すでに結果が出ているはずの時点での祈りは無意味な行為なのだが、現代人も、たとえば知人が事故に巻き込まれたという一報を聞いて、無事であってほしいと祈るのも、実はその時点ですでに結果が決まっているはずであるから、同じように無意味な話ではないのか、と論じるのですね。

3. カントの「物自体」をめぐって

この例文には、カントの「物自体」論が出てまいりまして、私はちょっと興味を引かれたのですが、少々おかしなことであるように思います。これは、大森氏の文章では、以下の部分にあたります。

それはわれわれが堅持していると思っている「決定済みの過去の実在」という信念に走った一筋の亀裂ではあるまいか。この信念の底には、現在からは手がもう届かない「過去自体」という人類に染み付いた思いがあると思う。そしてこの「過去自体」という考え方こそ、カントが徹底的に批判したあの「物自体(Ding an sich)」の考えそのものが、その同類近縁のものである。カントの批判に同意する現代の人々は、当然「過去自体」の考えをも批判すべきなのに、これまでまったくそれを怠ってきた。

で、これに対します入不二氏の文章を引用いたしますと、次のようになります。

まず、「底」と言われている点に注目しよう。「この信念」とは、われわれが常識だと思っている「決定済みの過去の実在」と言う信念である。その常識のさらに奥底に控えているのが、「過去自体」という思いである。

ならば、「物自体」のほうは、われわれのどのような常識の「さらに奥底に控えている」思いなのだろうか。「決定済みの過去の実在」に相当するような常識を、(時間ではなくて)「物」の場面で考えてみればよい。「物は、われわれの知覚現象(見たり・聞いたり・触ったり)などを引き起こす原因として、外界に実在する」という考えが、われわれが堅持していると思っている信念(=常識)であろう。この常識の奥底に控えている思いが、「物自体」なのである。

まず、大森氏の文章を読んで驚かされますことは、「カントの批判に同意する現代の人々」なる文章でして、この文章を素直に読むならば、「現代の人々」とは「カントの批判に同意する」ということになりそうですが、これは果たして本当であろうか、と思うのですね。

第二に、カントは知覚の原因たる外界の存在を否定などしておりません。まさにそういうものとして外界は存在する、と語っているのですね。カントが否定しているのは、われわれがその上に理性を働かせております概念は、外界の実在ではない、という点でして、われわれの精神内部に構成された概念をわれわれの精神は扱っている、というわけです。

4. 大森氏の誤読?

この点につきましては、純粋理性批判に対して沸き起こりました「観念論」との批判に対して、プロレゴーメナの注の形で、カントは明白に述べております。この詳細に関しては、本ブログの過去の記事をご参照ください。

ちなみにこの部分の私の疑問と同様な疑問を、入不二氏も呈しておりまして、次のように述べております。

カントは、大森の意に沿うような仕方で、本当に「物自体を徹底的に批判した」だろうか? むしろ「物自体」という考え方を、徹底的に考察しながらも別の仕方で温存したのではないか? 「現代の人々」は、「大森=カントの批判」に、それほど「同意」しているだろうか? 「批判すべき」「怠ってきた」と大森は言うが、この発言は、すでに大森の過去感に賛成である人にしか、説得的ではないのではないか? そのような疑問が湧いてきて、私には、すんなりとは読めない個所であった。

と、いうわけで、いろいろな意味で頓珍漢な問題となっているように私には思われますし、入不二氏も似たような疑問を呈しておりまして、あまり入試問題としては適切ではない文章であるように私には思われます。つまり、なまじカントなどを理解している受験生にとりましては、えらく不利になりそうな試験問題、なのですね。

なお、カントに関しましては、本ブログでも過去に何度か扱っておりますので、ご興味のある方は過去ログをサーチしてください。

5. 後の祭りを祈る意味

最後に、「『後の祭り』を祈る」意味につきまして、私の考えを簡単に述べておこうと思います。

まず、外界の実在、という意味では、青年たちが帰路についている時点では、狩の結果はすでに決定しており、酋長の祈りが外界の実在に働きかける余地はありません。まあ、祈りが有効な作用を有するとした場合もそうである、という意味ですが。

しかしながら、人間にとっての世界は、知りえた情報によって構成されており、青年たちが帰路にある間は、村の人々は狩の結果を知りえず、彼らにとりましては、事態は決定している、とはいえないのですね。だからそれが良い形に決定することを祈る意味は多分にあります。

この場合、自然学的な意味合いと異なり、その祈りが物理的に狩の結果に影響を与えるか否かにかかわりなく、村人たちがその祈りを意味のある行為であると受け入れるならば、酋長の祈りは有意義である、ということになります。

これはたとえば、人間ドックで検査をするようなことを考えればご理解いただけるでしょう。第一に、検査が完了し、結果を聞くまでの間、病院側ではすでに結果が判明しているとしても、その結果を聞くまでは、検査を受けた人には結果は未定です。ですから、結果が良いことを祈ることは間違ってはおりません。

少なくとも、私が検査を受けたとして、検査の結果を聞きに行く段になりまして、その結果が良いものであることを祈ってくれる人に、私は悪い感情を持たないと思いますし、無駄なことをしやがって、などとは、まず考えないでしょう。

さらに、検査が完了する以前であっても、実は、体内の異常の有無はすでに決定された事実でありまして、検査はその情報を人が知りえる形にするだけです。したがって、検査をする前に、すでに検査の結果は確定している、と物理的にはいえるのですね。もちろん検査が正しく行われることを前提として、の話ではありますが。

しかしながら、自然界ではすでに確定した事実であろうと、体内の異常の有無を人が知りえない以上、それが確定しているかどうかということなど、人にとりましては何の意味も持ちません。だから、手間隙掛けて検査をし、人の知りえる情報とするしかない、というわけです。

これは余談ではありますが、未確定の未来の事に関しても、人がそれを知りえれば、確定した事実として行動することもありえます。たとえば、皆既日食観測ツアーに申し込む、などというのは確定した未来を前提としての行為なのですね。

さて、知りえない事実は、たとえ確定しているとしても、人にとりましては未確定であって、それが確定していることを前提に行動することはできません。すなわち、過去の事態につきましても、それを知らない以上は、未確定であるとして行動するしかないのですね。このような事例は、人間社会の幅広い領域で存在いたします。

最近、NHK職員のインサイダー取引が問題となっておりますが、このような情報も、公開される前は、多くの人にとりまして未確定の情報であるわけです。つまりは、実際には値上がり確実である株も、その事実を知りえない以上は、安値で売却する、ということもありえるわけです。

この例では、未公開情報を未確定であるとして行動することが正当な行為であるわけで、逆に、すでに確定しているけれど特定の人以外は知り得ない情報を使った株取引は、社会的には不当な行為である、ということになっております。

世界を把握する論理には、互いに矛盾しつつも、いずれも正当ないくつもの論理がありえます。その一つは、神の視座とも言うべき、外界の真実に基づく把握であり、また、人の知りえる情報に基づく把握もありえるでしょう。

ここで提示された「『後の祭り』を祈る」、という行為も、まさにその二通りの評価をすべき対象であり、すでに決めてしまったことを変えてくれと祈られる、神の観点からは無駄な行為でありましても、何が起こったかを知りえない人間精神の観点からは、過去もまた未定であり、祈る理由は多分にある、ということになろうかと、私は考えております。

6. 量子力学的には

ふ~む、その狩りの成否が量子力学的擾乱によって左右されるものであるといたしますと、青年達が村に帰って結果を教えてもらうまでは、狩りの結果は成功と失敗が重なり合った状態にある、ないしは、世界は狩が成功した世界と失敗した世界に分裂している、という見解もあるかもしれません。

少なくとも、シュレディンガーのネコの実験に対する、コペンハーゲン解釈なり、多世界解釈なりを受け入れるなら、このような理解こそが物理学的にも正しい理解です。そして驚くべきことは、この二つの解釈が、今日の量子力学者の世界では、支配的な二つの相対立する考え方なのですね。

つまり、過去も未確定、なんだ!

ま、私はどちらも、単に知りえないだけの話である(つまり、量子力学者の常識は誤っている)、と理解しているのですけどね。


続きはこちらです。

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