谷川流「学校を出よう」を読む

本日読みます書物は、谷川流著「学校を出よう!」です。

この本、以前からそういう名前の本があることは知ってはおりました。

アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」で、キョンが長門とともに、不思議探しをサボって図書館に行った際に手にとったのがこの本だったのですね。で、キョンは、読書に熱中すると思いきや、すぐに寝込んでしまい、ハルヒからの電話でたたき起こされる、というお話の展開となっておりました。

この書名からは「つまらなくても、学校ぐらい出ておいたほうが良いよ」という、教訓に満ち溢れた書物、だと普通は思いますよね。で、私が読む必要はなさそうだ、などと思っていたのですね。

しかし、これはまったくの誤解である、ということを最近になって知りました。

これを知りましたきっかけは、「涼宮ハルヒの驚愕」がいつまでたっても出版されないことに業を煮やしまして、「『涼宮ハルヒの驚愕』を推理する」などという文書を以前ホームページにおいたのですが、さて、その評判を知るために、この文書のURLでgoogleサーチをかけまして見つけ出したのが2チャンネルの谷川流のスレッドでした(現在進行中のスレッドはコレ)。

このスレッドは、谷川流氏の書物について語るスレッドでして、当然のことながら代表作の「涼宮ハルヒシリーズ」に関する話題が多いのですが、なかには「学校を出よう!」についての話題もあり、以前の私の認識が誤りであることを知った、というわけです。

しかし、「学校を出よう!」のシリーズは、少々変な題名のつけ方であるように思います。

まず、第1巻だけを見れば、その書物の題名が「学校を出よう!」でして、少々しゃれ込んで英語の題名「Escape from The School」を付随させているように見受けられるのですね。

まあ、「学校を出よう!」と「Escape from The School」が、内容イコールの日本語と英語の関係にあるのかは、少々疑問ですが、イコールである、と解釈できないこともありません。まあ、最初からこの英語の表題が大きく掲げられていれば、私が誤解することもなかった、とは思うのですが。

第1巻は、まあ、それでよいのですが、第2巻以降は、日本語題名がすべて「学校を出よう!」でして、英語の題名がそれぞれに異なります。こうなりますと、英語の題名が日本語の題名を翻訳したものである、という前提は崩れまして、日本語の題名のようにみえました「学校を出よう!」というのは、実は「ドラえもん」と同様、シリーズ名であって、ここの書物の表題が英語でつけられている、という形をとっております。

そうなりますと、第1巻の書名も、同じように解釈すべきなのでしょうか? 気になります(by 千反田える)。

さて、内容のご紹介ですが、全般につきましてはWikipediaに詳しい説明がありますので、こちらをごらんいただくことといたしまして、私の感想を中心に本日は述べることといたします。

以下、ネタばれを含みますので、まだ同書を読まれたことがなく、あらゆる意味でその内容を事前に知りたくない、という方は、ここから先を読まれないよう、ご注意ください。

念のため、多少改行を入れておきます。

そろそろ、お話が始まります。

よろしいでしょうか?

さて、全体の印象といたしましては、涼宮ハルヒシリーズと比べまして、ハイテンションでエキセントリック、といいますか、登場人物に「濃い」人が多く、緊張感も高めです。よく言えば読み応えがある、悪く言えば読んでいてくたびれる本ではあります。

同書の中心をなしますのは、幽霊とか、超能力といった超常現象でして、これを引き起こす能力のある少年少女を収容する全寮制の学校(第3 EMP学園)が物語りの舞台となります。

萌え要素に関しましては、妹萌えの方や、やたらとカッコづけの野郎萌えの方にはご満足いただけると思いますが、普通の精神の持ち主の人(と言って良いのだろうか?)であればハルヒのほうが上、ということになるのではないかと思います。

一応、お約束のキャラはそれなりに配置されており、萌え要素を含む学園青春物語の体裁はしっかりと守られております。とはいえ、異常事態の連発ですから、「マッタリ感」に乏しく、そういったものを求める人には不満があるかもしれません。

逆に、事件は次々と起こりますので、アクション好みの方には嬉しいかもしれませんね。

さて、分析とまおりましょう。

本ブログでは、書物を読む際にも、書かれていない部分の分析を信条としているのですが、超常現象、ですから、この部分に関する科学的突っ込みは意味がありません。しかし、PSY(サイ)ネットワークにつきましては、本ブログのテーマとも関連いたしますので、これにつきまして、本日は少々考察を深めることといたしましょう。

まず、同書に描写されておりますPSYネットワークですが、要は、テレパシーを極限にまで進めたものであり、ニューラルネットワークの接続を、固体の内部にとどめず、他者のニューラルネットワークとも直接に接続したものであるように読み取られます。

これって、HPの「オリジナル文書」にリンクを張りました「観測問題を解決するための修正自然主義の提案」に似た考えなのですが、もちろん全然違う概念である、ということをお断りしておきます。

まず、ニューラルネットを直接つないでしまう、というのは、非常に乱暴な発想でして、言うなれば、コンピュータのCPUやメモリを同じバスにつないでしまえ、という考えに近いものとなってしまいます。

つまり、このようなことをいたしますと、それぞれのニューロンが他人のニューロンとシナプス接続をするようになりまして、資源の不足は解消されるのですが、どこがリーダーシップを持って制御するかが不確実になり、混乱もまた生じてしまいます。

まあ、やるとすれば、誰かのニューラルネットワークを全体の制御に使い、その他のニューラルネットワークを利用する、というシステムなり、これを多層に設けたシステムがありえそうですが、このような絶対権力者型システムが受け入れられるものかどうか、はなはだ疑問であり、また、そのための制御をどのようなメカニズムで行うかという、技術的な問題点もあるように思われます。

多数のコンピュータを接続するもう一つのやり方は、それぞれが独立したコンピュータシステムを、ネット経由で接続することで、これなら別に混乱は生じません。テレパシーであるならば、あたかも電話を掛けるがごとく、他人の頭の中に、直接メッセージを送り込んだり、受け取ったりする、というわけですね。

これなら、コンピュータシステム上で実現することも、全然無理がありません。なにぶん、現在のインターネットに接続したパソコンは、そのようなことが現実的に行われているわけで、ネットに接続された他のPCのファイルを利用したりすることが自由に行われているのですね。

では、これを人間にあてはめたらどうなるか、といいますと、実はそのようなことは、人類の歴史の中で、極めて古い段階から行われております。

つまり、人と人とは、さまざまなコミュニケーション手段で接続されております。これらのコミュニケーション手段が運んでいるものは、誰かが考えた思考の内容であり、それを他人に判るように整理された形で提供しているのですね。

コミュニケーション手段は、古くは身振り手振り吼え声の、単なる感情を伝えるのみの手段であったのでしょうが、言葉が生まれ、理論や概念も伝達されるようになります。そのうちに、印刷術が発明され、言葉を多数の者に伝達することができるようになります。

さらに、19世紀以降は、技術の発達により、電信、電話、レコード、ラジオ、テレビ、インターネットと、人々の利用できるコミュニケーション手段は急速に充実していくのですね。

で、そうしたコミュニケーションチャンネルで結ばれた人々の集団というのは、人間とは異なる意味での、思考するシステムであり、これが作り出すのが客観である、と考えている次第です。

まあこのあたりのお話を始めますと、「学校」からはるか遠くに隔たってしまいますのでこのへんにしておきますが。

さて、学校を出ようは、一応全巻を買い求め、現在2巻目を読み始めたところです。これ、1巻とは全然別のお話ですね。その辺がハルヒとは大いに異なりまして、まとめて評論することが難しいところです。

まあ、ありがたいことに、「学校」も5巻でストップしておりまして、時間は充分にあります。どうせ、「涼宮ハルヒの驚愕」も、そうそうすぐには出そうにありませんので、この先は、「学校」をしばし熟読することといたします。

まだ2巻も、少し未読部分が残っております。これが終りましても、さらに3~5巻が控えております。本日のブログは、少々中途半端ではありますが、この辺で終わりといたします。

2巻以降は、この先のブログで、改めてご紹介することといたします。