シュレディンガ-の猫は普遍妥当性をもって語れるか

連休は、何もせず過ごそうなどと考えておりましたが、何もしないといろいろと考えてしまうもの。まあ、せっかく考えたからには、ちょっとここにも書いておこうと、キーボードに向かうこととなりました。

以前のこのブログで「真理とは何だろうか」ということを議論しましたが、結局、真理とは普遍妥当性をもつ概念であるという、以前ご紹介いたしましたカントの客観概念と同じような結論に至っております。

普遍妥当性とは何かといいますと、「妥当性」というのは論理的に正しいということ、これに「普遍」が付きますと、いつでも誰にとっても正しいこと、という条件が付け加わります。つまり、「真理」とは、論理的な齟齬がなくいつでも誰にとっても正しいといえること。まさに、「真実は一つ」であるわけです。

そこで、表題に書きました疑問が生じるわけです。つまり、シュレディンガ-の猫は、いったいどういう状態であるのが「真理」なのか、という問題です。ここで、真理というからには、それは普遍妥当性を持たなければならない、つまり、誰にとっても正しく、時間が経過しても変化しない普遍的な事象でなければならない、ということなのですね。

もちろん、猫の生死は時間がたてば変化しえます。猫にも寿命がありますからね。でも、ある時点における猫の状態は、それが真理であるというからには、時間の経過とともに変化してはならないし、誰にとっても同じでなければならないはずなのですね。

コペンハーゲン解釈によりますと、猫の状態は、観察するまでは確定せず、箱を開ける前の猫は生死重なり合った状態にある、とされております。これは果たして真理であるといえるかといえば、上に書きました真理の定義からいたしますと、はなはだ疑問である、と私は思います。

と、いうのは、箱を開けて仮に猫が生きていた場合は、箱を開ける前の時点における猫の状態は生存状態であったはずであり、真実が一つであるとするならば、箱を開ける前の猫は生きていた、ということになります。

また、仮に猫が死んでいたとしても、体温などの変化から、死後の経過時間は推定可能であり、いずれの時点で猫が死亡したのかは判断できるはずです。と、なれば、真理の普遍性から、猫は箱を開ける以前から、生死いずれの状態であったかは確定していなければなりません。

もちろん、箱を開けなければ人はそれを知りえず、猫の生死は確率として把握するしかないのですが、それは、猫は生きているか死んでいるかのいずれかであり、それぞれの事象である確率がこれこれである、という議論であって、猫が生死重なり合った状態をとっている、という意味ではないのですね。

そういえば、「誰にとっても」という条件も、シュレディンガ-の猫におきましては微妙になります。つまり、実験を行っている学者が観測しない時点において、別の人が箱の中をのぞいて猫の生死を知った場合、それを学者に教えなければ、学者にとっては猫の生死は確定しない一方で、中をのぞいた人物にとっては確定しておりまして、こういう意味でも「猫の生死は重なり合っている」というコペンハーゲン解釈は普遍妥当性をもちえません。

波束の収縮、という奇妙な現象も、同様の解釈ができるでしょう。波束の収縮とは、たとえばある原子が放出した光子の存在確率を与えます波動関数は、どちらに飛んでいったかわからない以上、あらゆる方向に向かって広がっていきます。で、どこかでこの光子を検出した瞬間に、光子の存在確率は検出された一点に収縮いたします。

波束の収縮は、広大な宇宙空間に広がった波動関数が、検出された瞬間に、一点に収縮する、というわけで、その収縮速度たるや光速の限界などお構いなしの、文字通り瞬時であり、これは物理現象としてははなはだ奇妙である、というわけです。

しかし、普遍妥当性を真実の要件とするならば、光子が検出された以上、宇宙のかなたの一点から検出点に向かって光子が一直線に飛んできた、ということであったと解釈すべきでしょう。なにぶん、真理とは、時間が経過しても変わったりしませんので、光子が検出された時点から過去に遡って光子の軌道を計算することができるなら、それが過去においても真理である、ということになるのですね。

もちろん、光子が検出される以前は、どこに光子があるのかはわからず、光子の位置は確率的に議論するしかありません。そういう意味では、波動関数が存在確率を与えるということは正しい認識なのですが、波動関数が有限の値をとる位置に光子が分布しているのか、といえばそうではなく、どこかわからない局所に光子が存在する、というのが真理である、ということになります。

結局のところ、真理とは、人の存在とは独立に決まっており、それを人は知りえる場合もあれば知りえない場合もある、ということでしょう。そして、真理を知りえない場合、それを確率的に予測することは、意味のある行為であり、量子力学も知りえない真理を確率的に予測する手法である、と考えるのが良いのではないかと思います。

実はこれに似た話は、すでに観測問題を解決するための修正自然主義の提案として、オリジナル文書にリンクを張っておきました。

さて、この話を拡張いたしますと、少々変わった結論が導き出されます。これは、一見したところ不合理な結論なのですが、よく考えてみると、妥当な結論であるように思われます。

すなわち、真理が時間の経過と無縁である、という前提を受け入れますと、未来は確定している、という結論も導き出されます。

と、いいますのは、未来もいずれは過去となり、そこでの出来事はすべて確定いたします。つまり、仮に未来のことであっても、あることが起こることが真理であるかどうかはいずれは確定するわけであり、現時点においても、それが真理であること自体は何ら変わらない、ということになります。

もちろん、未来の真理を人は知ることができず、知りえるとしても確率のみ。確定している、ということは真理であるとしても、どのように確定しているか、ということは我々は知る由もありません。

ここで、知りえないことは語りえないという原則を導入いたしましょう。これは、以前、科学に対する原則として考えたものと同一なのですが、この原則は、もっと広い範囲で適用されるべきであるように思われます。

この原則を受け入れるなら、未来の真理は仮に確定しているにせよ、それを人が知りえない以上、未来の事象は不確定であるとして人は行動せざるを得ません。

知りえないことは語りえないという原則は、普遍妥当性を真理の要件とすることと、コインの裏表のような関係にある、ともいえるでしょう。