竹島の教科書記述をめぐって

竹島をわが国固有の領土と教科書に記述するとの方針を文部科学省が固めた(ニュース)ことから、わが国と韓国の間の緊張が高まっております。

領土をめぐる問題は、国際関係の中でももっとも微妙な難しい問題であり、わが国国民の総意として竹島はわが国固有の領土であるとの意識を強く持つよう心掛けることは、わが国の政策として全く正しく、大いに進められてしかるべきです。

しかし今回の文部科学省の決定が、これを教科書に記述するという点でありますことは、この問題は、単なる領土問題としてだけではなく、教育の問題としても議論されてしかるべきであるにもかかわらず、これがおざなりにされていることに私は一抹の危惧を覚えます。

先日のこのブログでご紹介したのですが、大澤真幸氏はその著書「不可能性の時代」で、1970年以降を「虚構の時代」とし、主として若者達による信じがたい事件の続発を「現実への逃避である」と説明してしております。

大澤氏の指摘いたします「虚構の時代」とは、言いえて妙でありまして、1970年以降は教育機関を筆頭に、社会の管理化が急速に進んだ時代でした。管理社会とは、組織に属する個々人の行動が定められた範囲から逸脱しないよう厳しく管理される社会であり、目標や価値基準も第三者から与えられる世界です。

で、これらの与えられましたものが妥当であれば良いのですが、必ずしもそうではないということがばれてしまったのがバブルとその崩壊以降です。とくに、多くの官僚のーパンしゃぶしゃぶのご接待を受けるなどという、想像を絶する事実が明るみに出てしまいますと、この国の管理機構に対する信頼は地に落ちてしまいました。

これが清濁併せ呑む大人の世界であれば、助平でみみっちい役人がいたところで、まあどうせそんなところだろう、程度に考えてもらえるのですが、教育の場における信頼の喪失は致命的な問題となります。

ほとんど大人相手の大学くらいになりますと、少々怪しげな教育であってもこれを批判的に受け止める能力が学生には要求されるのですが、初等・中等教育の場においては、教えられる内容は真実でなければなりません。

ここで言う真実とは、このブログで何度か書きました「普遍妥当性」に立脚するものであって、誰にとっても、いつでも、合理的に真であるといえるものであるという意味です。つまり、それを否定する主張には合理的に反論できなくてはならないのですね。

問題は、「竹島は日本固有の領土である」という命題ですが、確かにわが国のこの主張は古文書の存在などから正当と認められる根拠があり、国際司法裁判所への提訴を韓国側が拒否していることは、わが国の主張が国際的にも認められる可能性が高いと、韓国側も考えているものとみられており、この命題は真である可能性が極めて高いものと考えられます。

しかしながら、「普遍妥当性」とは、「誰もがそうであると認める」ことが条件であり、それが不当な反論であるといたしましても、韓国側を説得できない以上はこれを普遍妥当の真実として教科書に表記することは妥当ではなかろう、と私は考えております。

もちろん、わが国の正当な主張を周知徹底する意味で、これを教科書に記載することは大いに結構なのですが、その場合には、これを韓国が否定していることへの言及は必須です。つまりわが国の主張がいかに正当であるといたしましても、これを受け入れない国家がある以上、この主張はいまだ普遍性を得ているとは言いがたいのが現実です。

その場合、単に双方の主張を併記するのは最悪の書き方でして、韓国側の主張は誤っていること、その理由の一つとして、わが国が提案した国際司法裁判所への提訴を韓国は拒否しており、韓国側の主張は不当であると自ら認めているに等しいなどの、わが国の主張の正当性を説明する記述が必要であることは言うまでもありません。

単純に、「竹島は日本固有の領土である」とだけ教科書に記述し、これだけを生徒が覚えたといたしますと、韓国側の「竹島は韓国固有の領土である」との主張と矛盾してしまいます。このとき、「竹島は日本固有の領土である」とだけ教えられた日本人は、「韓国人は嘘つきである」とか「無知である」などと考えるか、あるいは「日本の教育は嘘を教えていた」と考えるしかなく、どちらにしても困った問題となってしまいます。

双方の主張と、わが国の主張の正当性をきちんと教えておけば、韓国人の主張を聞いたとき、「ははーん、こいつ始めやがったな」とピンと来るでしょうし、「それならなぜ裁判所で黒白決着しないのだね」などときちんと反論できるはずです。そうなりますと今度は韓国人が「韓国の教育はひょっとすると嘘を教えていたのではないだろうか」などと考えてくれるかも知れないのですね。

まあ、これは楽観的に過ぎるかもしれませんが、あまり単純かつ一方的な知識だけを教えることは弊害が大きいであろう、と私は危惧している次第です。

教育の現場は、児童生徒に特定の思想を植え付けやすい、悪く言えば洗脳することができるという特徴があり、文部省と日教組が激しく対立する場所でもありました。ソヴィエト崩壊は日教組の思想に大きな打撃を与えたのでしょうが、官僚機構に対する信頼感が損なわれたことは文部省にも打撃を与えております。

このような不毛な政治的対立を続ける両者のいずれの主張も怪しげであることが児童・生徒に薄々気づかれてしまい、現実感を喪失する若者が急増したのが1990年以降のわが国であったのではないか、と私は思うのですね。

先日も若者による信じがたい事件が続発しております。教育の場から、フィクションとみなされかねない要素は一刻も早く排除すること、教育内容そのものを厳しい批判的精神に立って見直し、普遍妥当性に立脚した教育とすること、これが今日の教育の世界に要求されることではないかと考えております。

教育が真実を教えなければならないことは論を待ちませんが、なにが真実であるか、という問題はすぐれて哲学的な問いであり、簡単に答えることのできない難問です。

自明の真実であると多くの人がみなしている外界の実在にしたところで、人はそれを直接知ることはできず、人が知りえるのは、各人の精神の内部に再構成された外界の姿であり、概念としての世界です。

カントの言うように、人は外界を概念として把握する際、意識的・理性的にこれを行うのではなく、直感的・感覚的に概念を生成します。これがいかに行われるかは、人が生まれ育った文化的環境に依存することは、レヴィ・ストロースに始まる構造主義が教えるとおりです。

人の知りえる真実は、外界の実在そのものではなく、概念世界であり、それが文化的環境に依存するとなりますと、真実などあってないがごとくであるといいたいところです。しかし、文化的環境に関わらず同じように理解される概念も多々あり、このような概念を「普遍妥当性」を有する概念と言います。

人はさまざまな文化圏に生きておりますが、その生きている世界は同じ地球の上であり、同じ自然法則の下で生きております。人の身体は、人種、民族により多少の違いはありますが、その遺伝子の大部分は同じであり、同じメカニズムで生命を維持し、大脳の生理的構造も似たり寄ったりです。

であるが故に、人は文化の差を越えてコミュニケーションをとることが可能でして、そのときに伝達すべきメッセージが、文化的差異に影響を受けない「普遍的メッセージ」であるわけです。

今日の世界は、文化、民族、人種を超えてさまざまな物資、資金、情報が流通しております。それが可能であるのは、普遍妥当性が人々の活動の幅広い分野に存在しているからです。

この先の世界はますます国際的な交流が盛んになるでしょう。そのときに必要な人材は、普遍的コミュニケーションのできる人間であり、普遍妥当の真実を見極められる人間に他なりません。

わが国の教育は、まさにそのような人材を育てるものでなくてはならず、普遍妥当性に立脚した教育はこの意味でも重要である、と私は考えております。