シュレディンガー著「生命とは何か」を読む

本日はシュレディンガーの「生命とは何か」を読むことといたしましょう。

同書の意義

シュレディンガーは、原子中の電子軌道を記述する「シュレディンガーの波動方程式」や、量子力学のパラドックスであります「シュレディンガーの猫」で知られる物理学者ですが、後年、インド哲学に傾倒したことでも知られております。

同書は原書が1943年の出版で、ワトソンとクリックによります二重らせんのDNA模型が発表される1953年に先立つこと10年という時期に書かれております。すなわち、同書の中心を占めます生命現象、なかんずく染色体の働きに関しましては、記述が古臭く、歴史的意義を超えるものではないように思われます。

しかしながら、各所に出てまいります哲学的記述は非常に注目され、特に、何ゆえにシュレディンガーがインド哲学に傾倒するに至ったか、という背景を推理する上では、同書は貴重な存在であるように思われます。

と、いうわけで、本日はこの本から、生命現象に関する部分は脇におきまして、シュレディンガーの哲学に焦点を当ててみていくことといたしましょう。

生命を支える機構

まず、最初に近い部分でシュレディンガーは次のように書きます(p23)。

以下の考察は、脳や感覚器官系以外の諸器官の働きにもまた、本質的にあてはまるでしょう。だが、われわれ自身の心に最高の関心を引き起こすことこそは、われわれが感じ、考え、認識するというこのことです。

もしも純客観的な生物学の立場からいうのでなければ、少なくとも人間という立場からは、思考と感覚の基礎をなす生理学的過程にくらべると、他のすべてのものは補助的な役割しか演じておりません。

研究の対象として、主体的な現象に密接に伴う過程を選ぶならば、たとえわれわれがこの主体と客体との密接な対応関係の真の本性を知らなくとも、われわれの仕事は非常に容易になるでしょう。実際、この対応性は私の見るところでは、自然科学の領域外に属し、おそらく、そもそも人間の理解の及ばないところにあるものと思われます。

この文章はえらく理解しがたいのですが、以下の3点を述べていると読むのがもっとも自然であるように思われます。

(1)脳や感覚器官の働きこそもっとも興味深いものであり、これについて考察を進めることにしたいこと

(2)「感じ、考え、認識する」といった「主体的な現象」ではなく、これに「密接に伴う過程」を研究対象として選ぶことで研究は容易になるということ

(3)主体と客体との密接な対応性に関しては自然科学の領域外であり、人間の理解の及ばないところにあるということ

こう書いた後シュレディンガーは生命について物理学的な説明を始めるのですが、そこで語られるのは(脳の働きではなく)遺伝子の働きが中心となります。これにつきましては、最初に書きましたように、今回はスキップすることといたします。いずれにせよ、本論の結論は次のようになります。

第一は、多細胞生物の場合にこの歯車(染色体という生命を支える物理的な機構)が巧妙に分布していること。……第二は、ただ一つの歯車ももちろん人間のつくった粗雑なものではなく、量子力学の神の手になる最も精巧な芸術作品だという事実です。

からだを司る霊魂

さて、同書の哲学的議論は「エピローグ」の部分で大いに展開されます。

シュレディンガーは、最初に問題を定義し、解を与えます。

(i) 私のからだは自然法則に従って、一つの純粋な機械仕掛けとして働きを営んでいる。
(ii) にもかかわらず、私は私がその運動の支配者であり、その運動の結果を予見し、その結果が生命にかかわる重大なものである場合には、その全責任を感ずると同時に実際全責任を負っている、ということを疑う余地のない直接の経験によって知っている。

右の二つのことがらから推して考えら得る唯一の結論は、私―最も広い意味での私、すなわち今までに「私」であると言いまたは「私」であると感じたあらゆる意識的な心―は、とにかく「原子の運動」を自然法則に従って制御する人間である、ということだと思います。

このシュレディンガーの主張はデカルトの心身二元論と同じ考え方であり、人のからだは自然法則に従う存在であり、それを「私」という主体が制御している、ということになります。

この主張に対しては、デカルトの心身二元論に対してと同様な批判、すなわち人のからだを制御している「私」とは、自然法則に従うものであるのかそうではないのか、という疑問が当然生じるでしょう。

シュレディンガーの考えは、同書を読む限り単純でして、「私」とは「霊魂」であるということであるようです。すなわち、自然法則を超越した霊魂が人のからだという物理的実体を制御している、と考えるわけです。

この主張が正しければ、脳内現象において、自然法則に従わない現象が見出されてしかるべきなのですが、これまでの脳科学の成果をみる限り否定的であり、「霊魂」が物理的実体に何らかの影響を与えているという可能性は否定されてしかるべきです。

シュレディンガーの関心は、しかし、(1)霊魂は身体の死とともに消滅するのかそれとも不滅であるのかという点と、(2)霊魂は唯一つだけ存在するのか多数存在するのかという点に移ります。

ここでシュレディンガーは、霊魂は複数存在するというヨーロッパの常識を捨て、霊魂は唯一つのみ存在するというヴェーダーンタ哲学(梵我一如)を採用いたします。この哲学においては、人と天は一致する」(アートマンブラーフマン。人間の自我は普遍的な全宇宙を包括する永遠性それ自体に等しい)とし、同派の神秘家たちはこれを私は神となった」との一句に要約できる言葉で表現しているといたします。

これはほとんど唯心論ないし独我論といっても良いような考え方なのですが、ここまでいってしまうのは少々やりすぎのように思います。ただ、デカルトの「我思うゆえに我あり」を素直に発展させればこのような考え方に到達するということもありえないではありません。

カントの行き過ぎた考え方

シュレディンガーは、当然のことながら、カントの認識論を否定いたします。

そこの窓の外に一本の樹木がある。しかし実は、私に見えているのは樹木ではないのだ、というようなことが説かれたことがあります。或る巧妙な仕掛けによって実在の樹木はそれ自身の像を私の意識に投影し、私が知覚するものはその映像に他ならない。しかもその仕掛けのはじめの方の比較的簡単な数段階だけしか探られていない。もし君が私のそばに立って同じ樹木を眺めれば、その樹木は君の霊魂にも一つの映像を投げることになる。私には私の樹木がみえ、君には君のもの(著しく私のものと似ている)がみえるのであり、その樹木そのもの自体が何であるかはわれわれにはわからない、というようなとんでもない行き過ぎた考え方はカントによるものです。

意識を単一の存在とみる考え方の線に沿えば、このような説明の代りに、存在するものは明らかにただ一つの樹木であり、映像云々はすべて人をまどわすつくりごとにすぎないと言えばすむのです。

シュレディンガーは、今日「自己同一性」と呼ばれている概念を根拠に、以下のように霊魂の単一性を主張いたします。しかしこれで霊魂が単一であるとの結論が得られるためには、他者は存在しない、少なくとも霊魂を持ったものとしては存在しない、としなくてはなりません。

にもかかわらず、われわれは誰でも、自分自身の経験と記憶との総和は一つのまとまったものをなしており、他の誰のものとも画然と区別がつくということを疑う余地のないほどはっきりと感じています。そしてこれを「私」と呼ぶわけです。この「私」とはいったいなんでしょうか

もしこの問題を深く立ち入って分析するなら、それは個々の単独なデータ(経験と記憶)を単に寄せ集めたものにほんのちょっと毛のはえたもの、すなわち経験や記憶をその上に集録した画布(キャンバス)のようなものだということに気づくでしょう。そして、頭の中でよく考えてみれば、「私」という言葉で呼んでいるものの本当の内容は、それらの経験や記憶を集めて絵を描く土台の生地だということがわかるでしょう。

こう書いたあとに1ページほどの文章を挿入して、シュレディンガーはエピローグを終えています。この先のシュレディンガーの記述は自己同一性を改めて主張するのですが、その論理的つながりは、少々、曖昧模糊としております。自己同一性に基づき霊魂の単一性を主張することは、他者もまた霊魂を持つとする主張に対する反論にはなっていないのですね。

唯我論なり唯心論は、たしかにデカルトのコギト(思う我)を基底としてもっとも素直に導出される世界観ではあります。しかし、これでは学問も成り立たなければ、そもそも論を唱える意味すらなくなってしまいます。

少なくとも科学に言及する以上は、カントの認識論に立つのがもっとも自然であり、人の精神的機能が生み出す物語として、魂なり、自己の意識なりを捉えるのが受け入れやすい考え方ではなかろうか、と私は考えております。

独我論の意義

ヴェーダンタの哲学や禅の思想は、自然科学と並存しえるものではないのですが、だからといって無価値である、とは私は思ってはおりません。

唯我論や唯心論を他者に向かって主張することは何の意味もないのですが、自らがそう考えることは、まことにもっともであり、誰もこれを否定できません。

なにぶん、自然科学の教えるところに従えば、他者は機械仕掛けの存在に過ぎないわけで、自然法則に従って運動を続ける物体とみなすことができます。他者に精神的な働きがあると考えるのは、自らの心がそう考えているからであって、コギト(思う我)の論理により自らの意識を否定できないとしても、他者もまた同じように意識していると考えなければいけない理由はありません。

さらにその自然科学は、自らの存在も、この自然界の一部であることを教えております。ならば梵我一如、自らがこの大自然の一部であって、自らをあるがままの存在であると考えることも、一つの論理的到達点ではあるわけです。

人はえてして、他者との関係のなかで自らの精神を傷つけ、不幸になります。そんなとき、梵我一如と考えれば、浮世のつまらぬ悩みなど一瞬にして消失してしまうのですね。

ただこのような思想は、自らを救済するだけで、個々の精神の救済という意味はあるものの、他人にとってはあまり意味のあることではなく、社会的意義も限定的です。これを批判したのがブッダであり、現世で物理的に苦しむ人々を救済すべきであると教えたのですね。

人は世界をただ一通りに解釈しなければならない、などという必然性はありません。漫画をストーリーとして楽しんでも良いし、あるときにはインクや紙であると考えたところで何の問題はありません。そのような割り切りを持って梵我一如という見方を持ち続けることは、何かと悩みの多い現代人にとっての一つの救いではあろう、と私は考える次第です。


こちらに後日談を掲載しました。