佐々木俊尚著「ブログ論壇の誕生」を読む(#2)

#1に続き「ブログ論壇の誕生」をご紹介します。

第9章:トリアージ

トリアージというのは、大災害のときなど、治療を要するけが人に優先順位をつけるシステムで、救命不能と判断された患者を見捨てる、という判断が含まれます。

この章で紹介されるのは、経営学の授業でトリアージを例に経営理論を説明した三宅氏に対して「かわいそうだ」との感想が学生から出たことを批判的に書いた三宅氏のブログに対して、ネットの議論が沸騰した、という事例です。その代表的な批判として、同書は『「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か』などをあげております。

以下は私の意見です。

確かに、限られた資源を最大限有効に使うという、その一点だけから考えれば、トリアージは合理的な判断でしょう。しかし、理性が幾度となく大量虐殺を招いてきた歴史を、人は忘れてはなりません。ずいぶん昔の本ブログでご紹介いたしました青木保著「多文化世界」でも、理想の追求が人類の不幸な歴史を作り出してきたと、以下のように言及しております。

バーリンはイデオロギーは人間の理想を鼓舞する一方、人間性をおとしめたり抑圧したりする、この問題については、19世紀の最も鋭い社会思想家でさえ誰一人として予言していないと述べています。近代思想の中で、社会改革のイデオロギーは常にプラスの方向、よりよいものであると捉えられていました。それはフランス革命以来、人間の理想の追求の一環として捉えられてきたからだと言えるでしょう。

ただ、20世紀を振り返ってみますと、理想主義に貫かれたイデオロギーのもたらしたものは、結果的に反人間的な行いであり、価値の分断であり、ナチズムに象徴されるように、人類の一体化よりはむしろ人類の分断であり、抑圧であったと言えます。これは大変不幸なことだったと思います。

理性の暴走を食い止めるためには、「かわいそう」といった素朴な感情を無視してはならず、これを社会にフィードバックする手段として民主主義は高く評価されるべきです。たとえそれが「衆愚」と形容されようとも、ある局面では合理性を欠く、愚かな判断をすることこそ必要である、といえます。

このあたりのことは、別にネットの世界でなくても、ある程度の見識を有する人であれば、多かれ少なかれ気づいていることだと思うのですが、どうなのでしょうか?

いずれにせよ、ネットの世界からこのようなフィードバックがあったということは、三宅氏にとっては非常に有意義なものであったように私には思われます。もちろん、そのフィードバックについて掘り下げて考えるなら、という条件つきではあるのですが。

第10章:承認という問題

秋葉原の無差別連続殺人事件の背景に、他人に「承認」されない、という悩みを多くの人が抱えている、という指摘がなされています。佐々木氏は、この問題とネットとの関連について、次のように述べます。

かつて人は農村の中でムラビトとして生きることで他のムラビトたちから承認してもらい、心安らかに生きていくことができた。農村がなくなってからはそれは終身雇用された企業になり、会社員として同僚たちと赤提灯で一杯飲んで安楽に過ごすことで承認してもらっている安心感を感じることができた。

いまは農村も終身雇用制もなくなってしまって、承認される安息の場所としては、家族や恋人ぐらいしか残っていない。だったら家族や恋人のいない人は、どうやって自分が承認される安心感を抱くことができるのか?

いまのインターネットの掲示板やSNS、ブログでは、そうした安心感は抱けない。抱けないからこそみんな不安になる。そうして「何とかして全面的な無条件の承認を得られないだろうか」というのが、重要なテーマとなってネット論壇にのしかかり続けている。

しかしこれは無理な注文であるように、私には思われます。そもそも、「承認されない」という問題はポパーが「抽象社会」の問題として指摘した問題と同根であり、都市化に伴って必然的に発生する問題です。ホームページからリンクを張りました私の論文でもご紹介したのですが、ポパーは「開かれた社会とその敵(第1部)」で次のように述べます。

開かれた社会はその有機体的性格の喪失の結果として,次第に私が「抽象社会」と呼びたいものになるであろう.それはかなりの程度まで,人間の具体的集団という性格,またこのような具体的諸集団からなる組織という性格を失うであろう.めったに理解されることのなかったこの論点は,誇張の方法によって説明できよう.われわれは,人々がほとんど対面することのないような社会 ── そこではすべての仕事が隔離された諸個人によって遂行され,彼らはタイプされた手紙や電話で連絡し合い締め切った自動車で歩き回るような社会 ── のことを想像できよう(人工受精を用いれば,繁殖さえも個人的要素なしに行えよう).このような架空の社会は「完全に抽象的ないし非人格化された社会」と呼んでよいであろう.
...
現代社会では,親密な個人的接触を全然または極めてわずかしかもたず,名もなく孤独に,その結果として不幸に暮らしている人々が多数いる.というのも社会は抽象的なものになったが,人間の生物学的仕組みはあまり変わらなかったからである.人間は開かれた世界では満たすことのできない社会的欲求を持っているのである.

終戦直後にポパーが夢想いたしましたこの未来社会は、ネットが発達した今の社会そのものであり、ネットにその解決策を求めるとすれば、不完全な代替物でしかありません。しかし、それを承知で作り上げようとするのであれば、Wirthが“Urbanism as a Way of Life”(邦訳は高橋勇悦「生活様式としてのアーバニズム」が鈴木広編「都市化の社会学(1965)」に収録、原文はネット上にあります)で述べたように、それはそれで一つの解決ともなるでしょう。

社会生活のいろいろの側面から発生するいろいろの利害によって,人びとはひろい範囲にわたって分化している諸集団に所属しており,そのおのおのの集団はかれらのパーソナリティの一部分に関係してのみ機能する.そして,これらの集団は,村落コミュニティないし未開社会によくみられるような,ヨリ包括的な集団がヨリ狭小な集団をその配下におくための集中的配置を簡単には許さないのである.むしろ人びとの所属する諸集団は典型的には相互にわずかに関係しあうか,あるいはまったく不安定な方法で交錯している.
...
都市生活様式の明確な性格は,社会学的には,第一次的接触と第二次的接触との交替,親族の紐帯の弱化,家族の社会的意義の減少,近隣の消失,および社会連帯の伝統的基盤の崩壊にある,とこれまでしばしばいわれている.
...
一個人としては事実上無能であるという段階に落されるから,都会人は同じような利害をもつ他人とむすんで自己の目的を遂げるための集団を結成するよう努力せざるをえない.人間のもつ欲求や利害と同じ程度に,多種多様な目標をかかげる自発的組織がおびただしく繁殖する原因はこれである.
...
都会人は多くの場合自発的集団の活動を通して自分のパーソナリティを表現し・発展させ,地位をかくとくし,人生の経歴となる活動分野を決めることができる.しかしこれらの高度に分化した諸機能が原因となって生じる組織的な枠組はそれ自体,パーソナリティ (その関心はこの枠組のなかに入る) の統一性と統合性の保証とはならないことは,容易に推量されよう.個人解体,精神障害,自殺,非行,犯罪,背徳,無秩序などは,この事情のもとでは村落コミュニティ以上に普遍的であるとみてよい

つまり、ネット上にSNSのような形で仲良しクラブ的な場を形成し、相互に承認すればよい、ということですね。もちろん村落共同体的な完全なつながりをこれに求めることは無理な要求なのですが、都市的病理現象から人々を救済する役割は十分に果たすのではなかろうか、と私には思われます。

第11章:ケータイが生み出す新たなネット論壇世界

ケータイはパソコンと同様にネットに接続していても、パソコンとは異なる世界であり、そこでは論理性よりも感性的なつながりが求められている、と著者はいたします。ケータイ小説がベストセラーになったことをいぶかる人もいるのですが、ケータイという巨大マーケットが出版の世界に流れ込んだ、というわけなのですね。

IV ブログ論壇はどこへ向かうのか
第12章:『JJ』モデルブログ

人気ファッション雑誌『JJ』の読者モデルのブログが炎上したという事件を紹介します。その原因は、彼女の日常がNHKで紹介され、企業などから対価を受けて商品をブログで紹介していたことが明るみに出たためです。著者はその背景を次のように記します。

インターネットの空間が広告代理店やPR会社というネットの「当事者」ではない「第三者」によって蹂躙され、しかも「カネで書かせる」というコントロールが持ち込まれることに対して、インターネットの皮膚感覚として、痛烈な拒否反応を示したのだった。

しかしこの皮膚感覚はなかなか外部のリアル世界には理解されない。ネットという言論空間と、広告というビジネスの境界線の問題は、今後も容易に解決しない。

これはどうでしょうか。

このような行為は読者を欺く行為であり、ネットであろうと他のメディアであろうと問題になるでしょう。ネットが何でもありの世界であるなどという先入観でみておりますと、何で問題視されるのだろうかと疑問に思うかもしれません。しかし、ネットといえどもリアルワールドの一部であり、リアルワールドでだめなことはネットであろうとだめである、というだけの話のように私には思えます。

第13章:光市「1.5人」発言―ブログの言論責任はだれにあるのか

青山学院大の瀬尾准教授が個人的ブログに書いた記事(リンクは魚拓)に、母子の殺害被害者を1.5人(幼児を0.5人とカウント)したことからブログが炎上し、勤務先の青山学院大の責任までが追及されたというケースです。

個人のしたことで所属組織の責任までを問うのはやりすぎであるように思われますが、この方、何故に個人のブログに勤務先まで書いたのでしょうかね。追求するほうもおかしいけれど、個人の立場で発言するなら、あくまで一個人として情報を発すべきではないか、と私には思われます。もちろん、それがわかってしまうことには全然問題がないのですが、個人の立場で意見を発表するのであれば、肩書きなどをあえて宣伝するべきではないのですね。

またしても楽天ブログの文字制限です。続きは稿を改めて書くことといたします。

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