養老孟司著「唯脳論」再読(その1)

本日は養老孟司氏の「唯脳論」を読むことといたしましょう。

実はこの本につきましては、2年前のこのブログでも読んでいるのですが、今回文庫版を手に入れた機会に改めて読み直すことといたしました。

著者に先入観を持つのは良くないことではありますが、同書の中でも明らかにされていることですので書いてしまいますと、養老氏は本職を解剖学者とされる方で、自然科学の世界に属する方です。ただ、普通の自然科学の世界の方とは異なり、膨大な書物を読まれている方で、哲学の世界にも通じておられる方です。

つまり、養老氏は自然科学と哲学の橋渡しができる方であり、そういう意味でこの本は興味深い存在であるといえるでしょう。

まず、「唯脳論」の哲学的位置づけですが、これに関しましては、同書39頁(文庫版、以下同じ)の以下の箇所が興味を惹かれます。(読みやすいように改行を挿入しています。こちらも以下同様です)

唯脳論は、世界を脳の産物だとするものではない。前章で述べたように、意識的活動が脳の産物だという、当たり前のことを述べているだけである。

科学哲学者の大森荘蔵氏は、私の唯脳論に対して、「無脳論」を述べられた。世界は脳の産物である。唯脳論は、そこに導く危険がある。そう大森氏は思われるのであろう。

しかし、世界が脳の産物などとは、哲学者以外には、だれも思っていないのではないか。そういうことを考えるのが、ほとんど哲学者の定義ではないかと思うほどである。

どう考えたって、率直に言えば、脳は世界の産物であり、哲学は脳の産物である。脳は哲学よりも広く、世界は脳より広い。

上の引用部を解読いたしましょう。まず、(私が勝手に分けました)最後のパラグラフで、すべてに先立つ世界を認め、その一部に脳が存在するとしております。そして、その脳の機能として人の精神活動があり(第1パラグラフ)、精神活動の一つが哲学である、とするわけです。

つまり、養老氏の基本的立場は唯物論であり、素朴な実在論をそのベースとしております。この少し先、48頁あたりでは、脳と心を構造と機能の違いとして説明しているのですが、脳という物理的構造が心という機能を生み出すという意味であり、唯物論の範疇を超えるものではありません。

第2、第3パラグラフに関しては、養老氏の誤解があるように私には思われます。これを解説するとかなり長くなってしまうのですが、大事な部分ですので、一つじっくりと論じることといたしましょう。

まず、「世界が脳の産物である」とする哲学者の主張なのですが、純粋な観念論者は別として、カント、フッサールらの(私が思うところでは)正統的な哲学者はそのような主張をしているわけではありません。

今日の哲学思想の主流(であると私が勝手に思い込んでいる考え方、以下哲学者の思想を代表するものといたします)は、カントに言わせればもの自体、フッサールに言わせれば外界の実在の存在を否定してはおりません

これらの哲学者が主張しているのは「人によって認識された世界は人の精神の内部に存在する」という点でして、これは、ある意味、当たり前の話であるように私には思われます。

この逆、すなわち「人によって認識された世界は人とは無関係に(=認識する主体の外部に)存在する」という主張は明らかな矛盾を含んでおり、こ矛盾を突いたのが大森荘蔵氏の「無脳論」であるものと私は理解しております。(これにつきましては以前のこのブログでも議論いたしましたので、御興味のある方は参照してください。)

ところが、矛盾を含んでいるはずの「人によって認識された世界が人とは無関係に存在する」とする考え方にも一分の理がありますことから話がややこしくなります。

すなわち、「人によって認識された世界とは、人とは無関係に存在する世界として人が認識した世界である」からでして、実際に世界を認識しているのは自分の頭であり、認識された結果が頭の内部にあることは自分自身でも理解しているのですが、その認識された世界は自分とは独立に存在する世界であると人は考えているわけです。

これはある意味当然の話であって、人はまさに世界を知ろうとしているのであって、頭の中の世界がどうなっているかなどと考えているわけではありません。だからその結果得られたものが外界の姿であると考えるのは当たり前といえるでしょう。

しかし、その「人とは無関係に存在する世界として人が認識した世界」からは認識する主体としての自分自身がすっぽりと抜け落ちていることにご注意ください。なにぶん、人とは無関係に存在する世界なのですから、認識する主体としての自分自身がこの世界に含まれないのは大前提、ともいえます。

一方で、その世界の認識というプロセス自体はみずからの脳が行っているプロセスに他ならず、世界を認識している当人もその事実を自覚しております。人が世界を認識する際には、人とは無関係に存在する世界に認識する主体を含めない一方で、その世界が自らの脳内に構成されていることも自覚しているという、まことにややこしい状況となっているわけです。

結局のところ、同じ「世界」という用語を使いつつも、哲学者のいう「世界」と自然科学者のいう「世界」とは異なる概念であるとせざるを得ません。これを同じ概念であると考えることから、哲学者と自然科学者の大いなる誤解が生じているのではないでしょうか。

ちなみに、「哲学者のいうもの自体の世界を俺は語っているんだ」と自然科学者は主張するかもしれませんが、カントの主張するように、それは土台無理な話です。

なにぶん、自然科学者が語っているのが自らが認識した世界であることは自明であり、もの自体の持つ膨大な情報のごく一部を人間精神に取り込み、これに概念(つまるところ言葉)を貼り付けて議論していることは否定できないでしょう。

ケプラーの法則は彼の師ティコ・プラーエが観測した膨大な彗星軌道データを解析することで生み出されたのですが、その軌道データは有限の数字で表現されております。もの自体としての彗星の位置は無理数で表現されるはずなのですが、これを人は測定することも書きとめることもできないのですね。

自然科学者のいう「世界」とは、哲学者にいわせれば「人間精神の内部に構成された世界」なのですが、それが十分な検証プロセスを経た後には(つまりは見間違いや思い違いではないかぎりは)、人がそれを世界の真の姿と捉えており、これを多くの人が認める以上、これを「世界」と呼ぶことはなんら問題はありません。

ただし、自然科学者のいう「世界」には、養老氏も指摘いたしますように「主体を含めてはならない」という縛りがあります。意識する主体を考えますと、その瞬間に自然科学者のいう「世界」は、主体を省みずに広がっていた状態から、意識する主体の内部に構成された世界に、瞬時にして収斂してしまいます。

養老氏はこの事情を次のように説明いたしますが、この主張は少々的をはずしているように私には思われます。

「脳が脳のことを考える」おかしさとうのは、こうした論理的な問題(論理学において自己言及に伴いパラドックスが生じるということ)としてはまだ提起されていないと思う。しかし、こうした逆理が、脳が脳を考えるおかしさとどこかで共通点を持っているということは、ありそうなことである。

しかしだからといって、心つまり脳の機能が特別なものだということにはならないであろう。それはそれとして解決すればよい問題である。オシッコの生成だって、すべてよくわかったわけではない。心の問題が難しいというのは、他の問題の難しさを知らないからだけのことかもしれないのである。

この引用部の直前に、養老氏は自己言及に基づくパラドックスの(難しい)例をいくつか挙げているのですが、「すべてのクレタ人はうそつきであるとクレタ人に言われた場合どう解釈すべきか」という古典的な問題が一番簡単なところでしょう。

「自然科学者のいう世界に主体を含めてはならない」という制約は、「主体に思いをめぐらす以上、認識された世界は主体の精神内部に構成されたものであると考えなければならない」という事情に基づくのであって、自然科学が主体を捨象したところに成り立つ以上、やむをえない制約であると私は考えます。

つまり養老氏は、この問題と自己言及がもたらすパラドックスとの関連性を指摘するのですが、この指摘は的外れであるように私は思う次第です。

その他、養老氏は今日の世界が「脳化」していると説きます。この意味は、われわれが日常見かける光景が、ほとんど誰かの脳によって生み出されたもので覆われている、という意味でして、確かに真の意味で人の手の加わっていないものなど地上に見出すことはまずできません。

まあ、空を見上げれば、月や太陽や星々、そして流れ行く雲に、人の脳が生み出したものではないものを見出すことができるのですが、、、

で、この「脳化」は、脳内イメージの外界への投射ではあるのですが、大森荘蔵氏が指摘いたします、「(脳内から外界への)逆路の因果系列」という矛盾をはらむ概念とは異なっております。

大森氏がこれを矛盾として指摘いたしますのは、世界を認識するとき、認識された世界を人の意識の外部にあると考えるなら、感覚器官から認識作用を行う脳にいたる「順路の因果系列」に加え、脳内の認識結果を外界へと伝達する「逆路の因果系列」が必要なはずではないか、と主張するのですね。

しかし、養老氏の「脳化」におきましては逆路の因果系列はきちんと存在しておりまして、受容器(感覚器官)から脳にいたる順路と、脳から効果器(筋肉)にいたる経路が存在しております(65頁)。このあたりの議論は、いろいろと紛らわしい関係になっておりますので、よく考えながら読まないといけないところです。