存在とは:大森荘蔵著「時間と存在」を読む

大森荘蔵著「時間と存在」の読みを続けます。

この本、よくみますと「*」、「**」「***」の3部構成となっておりまして、「*」が時間論、「**」が存在論、「***」が「無脳論」をはじめとする脳に関する議論となっております。なるほど、同所の書名は「時間と存在」で、内容をストレートに表現したものとなっております。

時間に関しては前回議論いたしましたので、本日は存在について議論することといたします。

かく見えかく触れる事物としての存在

まず、大森氏は存在の意味を以下のように規定いたします。これは、日常的な感覚に極めて近いものといえるでしょう(段落は私が追加しています)。

しかし、このような哲学的論議のはるか以前に存在の意味は知覚の中に籠められてきたはずである。人間の生活の中でかく見えかく触れる、物を食べ、かく見えかく触れる、異性を追って性的に交わる。一方ではかく見えかく触れる、猛獣に襲われ、岩角で傷を負う。そうした生活の場でのさまざまな事物に、存在の意味が籠められていないということがありえようか。死と生に関わる物こそ、まず第一に存在する物であるはずである。

だから「存在」ということの意味は、そうした生死にかかわる事物(すべて立体の事物)の近くの中で発生し育まれてきたはずである。そうやって生成した存在の意味は数限りない世代に伝承され、また各世代それぞれの生活の中で使用されてゆくにつれて成長し、また強固に定着するようになったのに違いない。われわれ現代人が通用させている存在の意味は、こうした伝承と使用の結果なのである。

このようにして大森氏は、まず「かく見えかく触れる」事物の存在を認めたうえで、次に顕微鏡でなければ見えない病の原因としての細菌の存在、理論的に存在するとされる原子などの存在、普遍(一般的な概念、たとえば「犬一般」とか「三角形」といった概念)、数と幾何図形の存在について論じ、これらを「語り存在」と呼んでその意義を認めております。

シャープさに欠ける「語り存在」

この大森氏の議論は、きわめて常識的であり、今日の誰もが受け入れる考え方ではあると思いますが、私には少々シャープさに欠ける議論であるように感じられます。そこで、以下、私の考え方を簡単に述べることといたしましょう。

まず、大森氏の存在論は、「生活世界の存在論」というべきものであり、これはこれで重要であるし、また科学がこの存在論をベースとしておりますことも事実でしょう。外界の事物を棚上げして意識の内部を掘り下げて現象学を打ち立てたフッサールも、後年は、生活世界に関心を寄せており、このような存在論を出発点に選ぶことは妥当であろうと私も思います。

次に、器物を用いなければ知覚することができない「細菌」などの存在ですが、これに関しては、見たり触れたりできる事物の存在とさほど異なるものでもないように、私には思われます。

と、いうのは、顕微鏡は長い歴史の中で解像度をあげてきたのであって、当初はルーペのような、視力をわずかに補強する道具に始まっております。今日でも、低倍率のルーペから、光学顕微鏡、更には電子顕微鏡、AFM(原子間力顕微鏡)と各種の倍率の顕微鏡を利用することが可能です。

ルーペやメガネを使用することは、肉眼で観察することとさほどの違いはありません。肉眼とルーペの違いと、ルーペと低倍率の光学顕微鏡の違いとの間でも、事情はさして異なるものではありません。

ルーペを使えば、肉眼で見るよりも、より細かなところまで見えます。このとき、肉眼で見えていた部分も、拡大されてはおりますが、同じ形に見えております。そうであるなら、細部が肉眼で見えなかったのは眼の解像度以下だからであるに過ぎず、ルーペで見えるものは肉眼で見えるものと同じように存在すると考えることができます。

同様な関係はより高倍率の顕微鏡へと移行する際にも成り立ち、最終的に今日の人々は原子の姿まで見ることができる、と考えることができます。おなじ関係は触覚に対しても成り立ち、今日では原子一つに触れることすら可能であるといえるでしょう。

因果関係による存在の推論

電子や原子は因果関係に基づいて存在すると考えられているのですが、見たり触れたりして人が存在を知るのも因果関係に基づいており、因果関係による存在の認識は、見たり触れたりして存在を認識するのと同じ水準にあるといえます。なぜなら、そこに物があるから見え、そこに物があるから触覚を感じるという因果関係が、これら知覚による存在認識の前提となっているからです。

因果関係により存在を知る典型的な例が、物体とその影によるものでして、『影の形(結果)は何らかの「線(ray)」が形ある遮蔽物(原因:形相因)によって遮られた結果生じる』という原理により、特に原子レベルのさまざまなものの存在が確認されております。

たとえば、真空放電を研究する過程で、ガラス面の緑色の発光に、その前に置かれた物体の影が差すという現象が発見されました。これは、陰極から何らかの物体(線)が放出されているためと考えられ、陰極線(cathode ray)すなわち電子の存在が認められております。陰極線管(cathode ray tube)は20世紀には広く利用されており、つまりはブラウン管式のテレビがそれであったのですね。同様の事情は、密閉した印画紙に鍵の像が浮かび上がったことから放射線が発見されたなどの例にも見出すことができます。

古くはアリストテレスが「形而上学(上)(下)」で月食の因果関係について述べております。もちろんこの場合は因果を伝達する媒体は光線であり、興味の中心はアリストテレスの四因論をいかにあてはめるか、という点です。つまり、月食の形相因は地球である、というわけです。ギリシャ時代にこんな議論をしていることにも感心されますね。

形相因という概念は自然科学の上では重要な概念であり、何らかの特異な形状が観測された場合、その形状を作り出す原因が探求されることになります。結果となりましたのは、月食の際の、通常の月の満ち欠けとは異なる影の形状や、ガラスの発光部や印画紙に生じた影であり、霧箱の中の線状に生じた水滴です。

一般概念と個別概念

「見たり触れたりして知ることのできる存在」すなわち「日常世界における事物の存在」は、因果関係という視点を追加することにより、「自然科学が扱う事物の存在」にまで拡大することができます。しかし、「犬一般」などの一般概念(普遍性論争における普遍)の存在は、これとは別の議論が必要になります。

大森氏は、理想化された三角形といった幾何学的概念や、数や演算規則などの数学的概念概念的事物を、細菌などの存在の延長上に、「語り存在」としてその存在を認めるのですが、私は「個々の事物」と「概念」との間には、その存在のあり方において、一線を劃す必要があると考えております。

人が見たり触れたりすることによって認識した事物が自然界に存在することは確かであるとしても、人が認識した世界それ自体は人の脳内に形成された、その人独自の世界です。人が存在を認識するとき、認識の対象である世界と、人が認識した世界とは異なるものである、ということをまず理解しなければなりません。

認識の対象である世界は、これにかかわる情報を、この宇宙に存在するさまざまな物質が保持しております。一方、人が認識した世界に関わる情報は、認識した人の脳の機能が保持しております。人が外界の事物を認識するという現象は、この二つの世界の間で情報が伝達されることに他なりません。そして概念というものは、人が事物を認識する過程で付加されるものであり、宇宙に存在する事物の世界には含まれません。

しかしながら、認識の対象である世界と人が認識した世界とは別の世界であるといいましても、人が見て触れて存在を認識する際、それが自然界に存在する事物であるとして認識しておりますことから話がややこしくなります。

すなわち、人が認識しているのは自然界に存在する事物である、これはあたりまえの話です。一方で、人は自らの脳により認識をしており、認識された結果は自らの脳の内部に形成されるということもあたりまえの話です。

では、世界はどちらにあるのか、と問われるとき、これが人間の外部にあると答えるのが生活世界の存在論であり、自然科学が前提とする世界観です。逆に、これが人間精神(ないし脳)の内部にあると答えるのが観念論ということになります。

現実世界と認知された世界

私は、これがいずれか一方にあるとすることがそもそもの間違いであって、生活世界の存在論も正しいし、人が認識した世界は人間精神の内部にあると考えることも正しいとするのが正解であると考えております。

ここでは、ものがそれ自体として存在する世界を世界R、人によって認識された世界を世界Cといたしましょう。RとCはraw(生の)とcooked(調理済み)の意味であると考えていただいても、real(現実的)とcognitive(認知的)の意味であると考えていただいても結構です。

人が事物を認識するという行為は、世界Rの情報を世界Cに取り込むという行為に他なりません。その際、人は概念を付加いたします。すなわち、概念そのものや一般概念としての「普遍」は世界Cに属する存在であるということになります。

自然科学は世界Rをその対象としているのですが、自然科学は人間精神による世界Rの叙述であり、叙述そのもの、すなわち自然科学の成果は世界Cに属します。(この段階では、社会や他者のことは考えず、一人の人間が自然を研究していると考えます。社会や他者については、後ほど考察を加えることといたします。)

カントのもの自体

ここまで考えますと、カントの主張も理解しやすくなります。カントは「もの自体」という言葉で世界Rを語っており、世界Cを彼の哲学の対象としております。そして、カントの「人はもの自体を知り得ない」という言葉が、大いなる誤解を生み出した原因ではなかろうか、と推察されます。

人が世界を認識するとき、人は世界Rのもつ情報のごく一部のみを世界Cに取り込んでおります。

眼前の樹木を眺めるとき、樹木自体の持つ膨大な情報量のごく一部のみしか世界Cには取り込まれません。樹木には多数の葉がついているのですが、これが何枚ついているか、大抵の人は気にも留めないでしょう。それどころか、樹木のどの一つの葉をとってみてもそれぞれは多数の細胞で構成されており、さらにどの一つの細胞を取ってみてもこれを構成する分子の数は膨大な数にのぼります。

そこで、カントの「人はもの自体を知り得ない」という言葉は、「人は世界Rのもつ情報量の極めてわずかの部分しか世界Cに取り込んでいない」という意味であると解釈すれば、この言葉はそれなりの正当性を持ちます。

しかしながら、そのわずかばかりの情報量であっても、人がこの世界で生活をする上では十分であり、そうやって人類がこの地上に生存してきたことも事実です。したがって「人は世界Rのもつ情報量を十分に世界Cに取り込んでいる」ということもできます。

世界Rであります「もの自体」を知り得ないとして世界Cにのみ思いをめぐらすカントの思想は、旧来の素朴な思想から大きく前進した思想であると思いますしその正当性を認めることもできるのですが、同時に、非常に誤解を招きやすい思想であったと思います。

これは、カント自身プロレゴーメナの中で自らの思想を「観念論」とされたことに反論していることからも推察されるように、世界Cのみに意味を認めたと受け止められてもしかたのないところでしょう。

そうであるから、シュレディンガーのカントに対する反感も、単にシュレディンガーの誤解として片付けられるものでもなく、カント流の表現をもう少し誤解を招かない形に修正すべきではなかろうか、と思う次第です。

この誤解を解くためには、上に書きましたように、(もの自体の)世界Rと(認識された)世界Cが並存すると主張すべきであり、「人はもの自体を知りえない」のではなく、「人の認知行為は世界Rの情報を世界Cに取り込む行為である」とすべきであろうと、私は考えております。

人間社会という世界

さて、二つの世界、人とは独立にそれ自体で存在する世界Rと、人が認識することにより人の精神(脳)内に形成する世界Cに加え、人の集団(社会)の内部に形成される世界Sを考える必要があるのではなかろうかと、私は考えております。ここで、Sはsocial(社会)であり、swarm(群れ)でもあります。

自然科学を含む学問的知見は、単に一個人が形成したものではなく、社会的に形成されております。それどころか、個人のもっておりますさまざまな概念や知識体系も、自らが見出したものは一部に過ぎず、その大部分は人間社会から得たものです。

そもそも言葉が社会的な存在であり、三角形や直線あるいは自然数や実数といった数学的な概念も、社会の機能であります教育によって人は獲得しております。

自然科学にしても、研究者は教育により基礎を学び、出版、図書館、研究機関、学会といった社会システムの中で理論を発展させております。研究の成果は社会全体で妥当性が検討され、共有され、世代間で伝達されます。

人間社会には、ある種の精神的(情報処理)機能があることは自明であり、この精神的機能が事物の存在の有無を判定していることも、また確かでしょう。となれば、社会に共有された認識を、世界Rや世界Cとは別に想定する必要があるように私には思われます。

世界Sとは、常識、定説、文化の世界であり、学問の成果は世界Sに属するものです。人は世界Sからも自らの世界Cに情報を取り込みます。教育を受けたり書物を読むなどはみな世界Sからの情報の取り込みということになります。

ここで、他者と社会の関係は少々曖昧模糊としております。他者は一個人であると同時に社会の構成要素です。他者とのコミュニケーションは自らの世界Cと他者の世界Cとの情報の交換であると同時に、世界Sとの情報の交換でもあります。

世界Sとは、全人類を包括する普遍妥当の世界には限定されず、ある集団という小さな社会内部での共通認識も含まれます。その最小単位が自らと他者の関係であり、他者の世界Cは社会の世界Sの一部であるとみなすことができます。

世界Sも世界Rも、人にとっては自らの外部の世界です。このため、この二つの世界を混同することも起こりえます。「主観」という用語は世界Cの意味で使用されていると考えて間違いがないのに対し、「客観」という用語は世界Rの意味で使われることも、世界Sの意味で使われることもあります。

フッサールは「客観」を「他者と共有される主観」すなわち「間主観性」の上に再定義いたしました。この意味での「客観」は世界Sを指します。一方で、「客観」に対応する西欧の用語“object”は主観に対する「対象」という意味合いが強く、この意味ではもの自体の世界であります世界Rの意味にも受け取られてしまいます。

カントも実はこの部分では混同しているように見受けられ、世界Rと世界Sとを同一視しているような表現も見受けられます。しかしながら、情報が何によって保持されているかということ、概念の使用の有無などに思いをめぐらせれば、世界Rと世界Sはまったく異なる世界であることが御理解いただけるでしょう。

三つの世界のダイナミズム

世界Rは自然界に存在する物質が情報を保持し、それ自体で運動を続けております。世界Sは各々自己の世界Cをもつ多数の人が相互にコミュニケーションすることにより形成され、社会システムとして情報を保持し、情報の処理を行っております。

その間にある人の精神内部に形成された世界Cは、自然界の事物を知覚すると同時に、社会からもさまざまな情報を受け取り、自己の世界Cのもつ概念や自然理解を人類共通の概念、すなわち世界Sの概念と共通化するよう努力をしております。

この三つの世界はまた、相互に他を要素として含む階層を形成しております。自己の世界Cが可能であるのは脳という物質に依存し、脳自体は自然界に属する事物であり、世界Rに含まれます。

社会は人によって成り立っており、社会がさまざまな概念を扱うことができるのは、これを構成する個々の人の精神的機能によります。つまり、世界Sの構成要素として世界Cは不可欠であるということになります。

これらの世界が混同される理由の一つは、全体をその部分として語ることであるのかもしれません。自己の世界Cは、確かに脳という外界の存在、すなわち世界Rに含まれる存在ではあるのですが、その果たしている機能、すなわち概念との結合などは、世界Rの論理で語ることはできません。

また、人間社会の精神的な機能は、これを構成する個々の人々の精神的機能に依存しているのですが、社会には個人を超えた論理レベル、すなわち「常識」とか「文化」といった概念が存在し、さらには学問的な成果も、個人のレベルではなく、社会のレベルにおいてはじめて意味をもちます。

ここまで考えれば、個人の精神的機能の内部に構成された世界Cと、社会システムに保持されている世界Sとは異なる論理空間であると考える必要があることは明らかでしょう。

ポパーはかつて三つの世界という考え方を唱えております。ポパーの三つの世界は、ここで示しました世界R、世界C、世界Sとよく対応しております。このような考え方は、さほど特殊な考え方ではなく、ある意味では、自然な考え方であるようにも思われる次第です。